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ホラーは「女の子をキャーキャー言わせる」ための道具ではない

まだまだ梅雨空だが、夏である。夏と言えば、「ホラー映画」「お化け屋敷」のハイシーズン。1年のなかで最もわくわくする季節だ。


小学6年生のころ、親友の影響でホラーにはまった。怖い話を読み漁り、修学旅行等で披露するための怖い話ネタ帳を作成した。

中学に入り、ホラー好きは収まるどころか、むしろ悪化した。「怖いの得意担当」として富士急ハイランドの戦慄迷宮に誘われた。近所の墓場で肝試しをした。親友達とホラー映画を撮影して中学生映画コンテストに出品した。ホラーゲームをとにかくプレイしまくった。

中学卒業後、一時ほどの熱量はないものの、ホラーが好きというのは変わらなかった。「生で聞く前に稲川さんに何かあったら困る」という一心で稲川淳二さんのライブツアーへ行った。大学時代は物理学専攻であったものの、英国ゴシック・ホラー文学についての講義を受講した。

先述の親友とは、お互い20代後半になった今でも定期的に「TSUTAYAでレンタルしたホラー映画を見る会」を開催する。

25歳、人生の半分を、ホラーへの強めの情熱をもって生きている。

「なまじいろんなホラーに首突っ込んで、『怖くないし!』といきってるヤツだろう」と思われるかもしれない。が、断じてそうではない。怖いものは怖い。ただ、それ以上に人が全力で作品として作り出した「恐怖」を体感することに、とんでもないロマンを感じるのだ。お化け屋敷であれば、「ここはこういうギミックがありそう」と考えながら歩く。ホラー映画を見れば、隅々に隠されたシミュラクラ現象や、カメラワークの妙を見ては、こういう効果が恐怖を増幅させるのか、と舌を巻く。

それに、ホラーの奥にある、作者が真に込めたメッセージを探すのに楽しみを覚えるのだ。大学で受講した講義はそのいい例で、20世紀初頭イギリスの人が感じた、未知(鉄道、異人種、疫病など)に対する恐怖を、ホラーの体をとることで文学として昇華した、という考え方に深い感銘を受けた。



アラサー彼氏なしの私は、男性と知り合った際に、「ホラーが好き」という話をする。このホラーへの偏愛を理解してくれる人を探したい…が、難しいのはわかっているので高望みはしない。私が避けたいのは、大好きなホラーを、ただ異性と接近するためのオモチャとして利用する人間だ。

彼らは、私の「ホラーが好き」という言葉に反応して、「じゃあ一緒にホラー映画見に行かない?」「じゃあ今度お化け屋敷行かない?」と誘ってくる。きっと、心のどこかで期待しているのだ。その映画が、お化け屋敷が、思ったより怖くないことを。それか、私が思ったよりも怖がりで、可愛らしく「キャー!」といいながら、彼らに寄り添うことを。

しかし、何を見に行くか?どこへ行くか?を話し合い、当日に待ち合わせ場所から会場へ向かうその最中も、一向に怖がらない私を見ると…許してくれと言わんばかりに、ポロリと漏らしてくるのだ。「実は怖いのは苦手なんだ」と。

記念すべき初デート相手がまさにこれだった。お化け屋敷のなかでも比較的怖くない方であるナンジャタウンのお化け屋敷のなかで、「ごめん、僕が怖いから手をつないでもいい?」と言ってきた。

私のなかで、疑念が失望に変わる。

だから怖いんなら入らなくていいよ、って言ったのに。このお化け屋敷にあなたが入ったのは、手をつなぐことが目的ではないと、胸を張って言えるのか?まるで小さな子供のように半べそで、私に手を引かれても、それでも手はつなげた、と自慢げに思うのか?そうだとすれば、その発想にお化け屋敷よりもずっと、寒気と恐怖を覚える。ホラーは、少なくとも私にとって、そんなためにあるんじゃない。


ここまで強めに書いているからと勘違いしてほしくないのだけれど、怖がりな男がダメとか、そういう話がしたいのではない。私があまりに楽しそうにホラーの話をするから、興味がわいて誘ってみました、であれば、それはそれで素直に嬉しい。

でも、私が怖がらないことに失望しないでほしい。ホラーであなたとの物理的・心理的距離は縮まらないから、私のホラーに近寄らないでくれ。ホラーを下心の隠れ蓑にするな。

…といいながら、ホラーに対して同じような視点を持っている人を探しています。私と一緒に、「思ったよりあそこは怖かったね」「この映画はクソだったね」とか言ってくれる方、そして何より、今年の稲川淳二のミステリーライブ大阪公演をご一緒してくれる方。本気で探しています。

サポートいただけるよう精一杯精進してまいります!ご興味がありましたら…ぜひ!