【短編小説】三つの願い
幼い頃に読んだ各国の童話や、シャルル・ペローの描く所、「三つの願い」をテーマにした話がある。
そしてそのそれぞれに、禁欲や愛や死生観と言った教訓が説かれているが、その全てに共通して言える事は「三つの願い」それ自体では誰も幸せにはならないと言う点だ。
何でも願いが叶うなら。アナタは何を願うだろうか。
アナタが周到な人間なら、自分は童話の様な失敗はしないと思うだろうか?
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先日の事。
表参道から渋谷方面に向かう際、大通りからちょっと外れた横道にひっそりと店を構える骨董屋で、奇妙なモノを見つけた。
それは15cm程の伽羅木と思しき立像で。保存状態が悪かったのか、その形は元々は仏像であったろうと予測できる程度の、かろうじて人型の黒光りする木の塊であった。
その像を手に取ってしげしげと眺めていると。奥で置物の様に固まっていた店主が、まるで誰かがその像を手に取るのを待っていたかの如くイキナリ喋りかけて来た。
「アンタ、その像が気になるかい?」
店主曰く、この像は持ち主に「三つの願い」を叶えてくれるありがたい仏像なんだそうな。
ボクは笑いながら「ならアナタが使ったらどうです?」と聞いてみる。すると店主は今更願い事なんて無いと応え。「良く考えてお使い」と、ボクが買う事を既に決め込んだようだった。
当然ボクはそんな話を全く信じてはいなかったのだが、妙にこの像に惹かれたのは事実で。ちょっと懐に痛い金額だったが、伽羅木の塊にしては破格ということで自分を納得させ、結局はその店主に従って購入する事にした。
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その夜、恋人との長電話を終えた後、クサクサした気持ちを紛らわすため、浴びる程酒を飲んで倒れる様に寝入ってしまう。夜中に目が覚めると仕事から帰ったままネクタイも緩めず、ソファに突っ伏した不自然な格好で寝ていたので酷く身体中が痛んだ。
床に座り直して<キャスター>に火を点けると、あまりの咽の渇きのため咽てしまう。頭はガンガンと響く様に痛んだが、怠い体を引き摺りながらノソノソと台所に向かい、蛇口に直接口を着け、これでもかと言わんばかりに水を飲むと、それで幾分気分も良くなり。ベッドルームに場所を移して再び<キャスター>を一本、ゆっくりとふかしながら中空を眺める。
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先の電話で長年同棲していた恋人と別れの意思を確認しあったばかりだ。その付き合いはもう5年にもなったが、その後半を占める長きにわたった冷戦状態の中で二人の神経は憔悴し切っていた。
なぜここまで長いこと付き合いが続いたのかさえ謎だったが。ちょっとした口論を境に、終にと言うかやっとと言うべきか、とにかく来るべき時が来たのだ。
これからは何者にも心を煩わされる事が無いのだと思うと、一瞬安堵にも似た気持ちがあったが。次の瞬間には「さよなら」と言う決定的な言葉を交わしてしまった事実にとてつもない寂しさを感じていた。
すがる事は無かったにせよ、実際ボクは彼女と別れたくなんか無かった。たとえこの別れが必然であったとは言え、未練だった。
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電話口では、一人でもやって行けると、君がいなくても平気だと、そう強がって見せた所で。いざこの広いベッドに独り横になると様々な思い出が未練がましく浮かんでは留まる。
ボクらがまだ仲睦まじかった時、彼女たっての願いで買い揃えた黄と青のヤコブセンのアリンコチェア。タバコで焦げ跡を作ってしまったカーテン。耐震用器具の取り付けに失敗して端が欠けてしまったマガジンラック。事あるごとに彼女が買ってくれた<レゴ>やら何やらの玩具や雑貨類。枕もとに置かれたトマト缶で出来た灰皿。
目に入るモノ全てが長年に渡って吸収された時間や思い出なんかをまとめて吐き出し、ここぞとばかりにボクに押し付ける様だった。
長年積み重ねられた思い出や言葉と言った、身体に染み付いてしまったモノをそう簡単に拭い去る事など出来よう筈もない。そして良い所も悪い所も、思えば彼女ばかりを見続けて来たボクには、この苦しみを受けても他に頼る人さえいなかった。本当の独りぼっちと言うヤツだ。所謂、彼女を失ったボクは世界一みじめな人間のようだった。
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それでもそんな感傷や孤独感に耐えながら、何処と無く実感の湧かないまま、翌日の仕事のために無理矢理にでも再び寝に入っていったが。
その夜中じゅう、寝相の悪かった彼女に、何度となく布団を掛け直してあげた過去の一幕を思い出しては、ちょっと物音がする度に反射的に目が覚めてしまうという始末だった。
そして横に誰もいない事を確認して、ちょっと泣いた。
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そんな形でウツラウツラとしながら迎えた夜明け方。自分が寝ているのか起きているのかも判断がつかない状態の内に、奇妙な夢を見た。その夢の中では先日購入した例の伽羅木の像が圧倒的な存在感を持ってボクにこう言うのだ。
「さぁ願い事を言いなさい……」
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その奇妙な夢のせいか、その日以来、三つの願いに対する想像や妄想が終始ボクの頭に渦巻いていた。とは言っても、それは宝くじが当たったら何に遣おうかと想像するのと何ら変わるモノではなく。要するにその時点では、あの像が願いを叶えてくれるなどと言う事は信じていなかったのだ。
ただその想像の中では、ひたすらに「彼女と縁りが戻ったら……」と言う事だけを考えて。その瞬間だけ幸せな気持ちになった後、ふと我に返ると、やはり寂しさがこみ上げる毎日だった。
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数日後。
仕事から帰り風呂から出ると携帯電話に着信履歴が残っていた。ボクに電話をかけてくるなんて彼女くらいしかいない。
ボクにはその電話の内容が容易く想像できた。きっと彼女も急激な寂しさに襲われている頃なのだろう。だからと言って彼女の意地っ張りな性格からして、電話をしてくるには何らかの理由付けをして来る事だろう。
そしてその理由付けとは、借り物の返却とか、部屋に置き忘れたモノの受け取りとか、そんなありきたりの話なのだ。
ボクは多少電話が長くなる事を考慮(期待)して発泡酒を手元に2本、灰皿とタバコを用意して、ちょっと緊張しながら彼女の携帯電話に返信する。
「もしもし、電話をもらったみたいだけど?丁度風呂に入ってたんだ」
本当なら再び彼女と話が出来ると言う喜びにワナワナと体が震えていたのだが。こう言う点はボクも相当意地っ張りなのだ。ボクは努めて平生を保ち、殊更気軽な調子で話し出す。そして携帯電話を耳と肩で挟みながら発泡酒のタブを開け、それを勢い良く飲み干して。タバコに火を着けながら耳を澄ます。
「折り返してもらってごめんね。もう寝るところ?」
「いや、さっき帰ってきたばかりなんだ。会議が長引いてね」
「ん……そっか……お疲れ様」
「あぁ、うん……」
互いにこんな優しい声で会話するのはとても久しぶりだ。あれ程互いを罵り合い、果てには無視する状態にまでなったのに。今では多少なりとも互いを労わる素振りを見せている。それが彼女にとっては単純に今の寂しさから来るモノなのだろうと理解はしつつも。ボクはボクで、やはり彼女への未練があって苦しかった。
用件を言わない彼女と、用件を聞き出そうとしないボクと。この電話をちょっとでも長引かせようと言う空気が二人を支配していた。この電話を切ってしまえば、本当にもう終わってしまうのだと。
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それでも、一通りの日常会話をした後は。感傷を避けるため思い出話などが暗黙の内に省かれてしまうと。それ以上ボクらには話す事なんて何もなかった。
また独りの空間に戻るのが恐かった。ボクはなんとか話を繋げるために様々に思い巡らせてはみたが。どうにも仕方なく、いよいよ本題に入ろうかと言う時。
ボクの視界の片隅に例の像の姿が飛び込んで来た。それはあたかも先日見た夢の様に、またしても圧倒的な存在感で「願い事を言いなさい……」と語りかけてくる様だった。まてよ?
ボクは咄嗟に彼女に一言詫びを入れて、また明日電話すると言う旨を伝え電話を切った。
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電話を置くと、ボクは何かにとり憑かれた様に像を手にとり、その滑らかな木肌を優しく擦り始める。暫くすると伽羅特有の、やや儀式めいた淡い香りが漂う。
この気が狂わんばかりの悲哀や寂寥や孤独が無ければ。そしてその想いを抱えたまま過ごした数日間の睡眠不足や、それに伴う極度の疲労が無ければ、絶対にこんな事を真剣に試みてみようなどとは思わなかっただろう。
ここ数日間想像し続けた、一つ目と二つ目の願いの使い道は決まっている。ボクはためらう事無く願い事を唱える。
「彼女との縁りを戻して下さい」
「そして、もう喧嘩が起こらない様にして下さい」
そこまで言ってしまってから、部屋に静寂が訪れると。ふと先程の電話の内容を思い出して不安な気持ちに襲われた。
それは彼女と縁りを戻して、喧嘩も起こらなくなったら。果たしてボクらにマトモな会話が成り立つのだろうかと言う不安だ。
その夜は、彼女との復縁がどの様な形で成って行くのか。彼女からの電話か。彼女が突然訪ねて来るのか。それともボクから言い出すべきなのか。そんな事を考え、玄関のドアや鳴らない携帯電話をじっと見つめながら。期待と不安で眠れないままに、朝を迎えて行った。
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また翌日。
仕事から帰ると、ソファーに腰掛け、まっさきに携帯電話を取り出す。あの像がボクの気持ちを後押ししてくれている。もう迷いなどなかった。ボクは武者震いの止まらぬまま、彼女に電話を掛ける。
彼女が出ると、まず昨日突然電話を切ってしまった事を謝罪し。ちょっと日常会話をした後、ついでに昨日感じた不安について話してみる。
「ボクらてさ、ずっと喧嘩ばかりして来たじゃない。何かマトモな、共通の話題て無かったのかなぁ」
「うん……それはワタシも思ってたよ」
そんな事を話して行く内に。今迄ずっと一緒にいたのに、本当に互いに何も共通の話題を持ち合わせていない事や。実は相手の事なんて殆ど何も分かっていなかったのだと言う事実に気付かされてしまう。そしてボクはその事実に愕然とすると同時に、絶望的な気持ちになってしまう。
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恋愛において、一緒にいるだけで幸せを感じていられる時間なんてほんの一瞬なのだ。その後の何年もの間、ボク達は一体何を話して来たのだろう。
この付き合いの間に。ボクらは喧嘩以外に何かマトモな会話をしたのだろうか?
確かに初めの頃は喧嘩もそれほど悪いモノでは無かった。互いに思いの丈をぶつけて真摯に話し合う事で、その付き合いがより良いモノになるのだと。喧嘩から仲直りした後の、互いに何かを分かり合えた様な。なんともぎこちない、甘酸っぱい空気が幸せだった。多くの修羅場を乗り越える分だけ、二人の結束がより強固なモノになって行くのだと、そう信じていた。
しかしそこから得られたモノと言えば。互いに譲る事の出来ない考え方の違いや、趣味趣向の違い。つまり二人の仲を向上させる情報なんて何一つ得られなかったのではないか。むしろ互いが性格的に合わないと言う事を浮き彫りにして来たのではないか。
ここ数日間、あれほど苦しんだと言うのに、像の力で縁りを戻すかどうか選べる立場になって、急に次の一言に俊巡してしまう。そしてそこに生まれた沈黙を押しやるように彼女が口を開く。
「ワタシ、明日早いからもう寝るね、悪いんだけど荷物の件だけよろしくね」
それっきり。
もう彼女と話すこともない。
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辺りは静まり返っている。
像は何も応えない。
動悸が激しくなる。
ボクは世間体も気にせず、この壁の薄いマンションの部屋で声をあげて泣いた。幾つかの調度品に八つ当たりもしたかもしれない。
ここ数日間心の拠り所にしてきた「三つの願い」を基とした、彼女と縁りを戻すと言う僅かな希望と、少しばかりの幸せな妄想という逃避の時間を失ってしまった事に対する恐怖。
そして何より「三つの願い」などという超常の他力に頼り。恋愛という神聖な現象を。二人で築いた短くない尊い歳月を。ボクは。汚してしまったのだ。
錯乱状態から落ち着くと。ボクの中には、役目を果たしたユダの心内に拡がる恐ろしい闇のように、呪わしいほどのどす黒い、自らへの軽蔑と。使わなかった三つめの願いだけが残った。
この世には。覗き見なければ済んだ事実や。踏み出さなければ良かった一歩と言うモノがある。自らを苦しめ破滅に向わせる、あの得体の知れない力共が。
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最後にこんな話をしよう。昔の話だ。
あれはボクが高校3年生で、2学期も終わりを向かえようと言う冬の金曜日の事。その日、ボクが所属していた剣道部の、3年生の最後の稽古日だった。
夕方になり稽古が終わると。その帰り際、教室に体操着やら何やらの荷物を忘れて来てしまった事に気付き、取りに戻る。
流石に大学受験間近の3年生の教室棟は閑散としていて、陽の落ちた後の校舎は薄気味の悪いくらい静まり返っていた。ボクは教室前のロッカーへ向かい、体操着袋といくつかの教科書をピックアップし、そそくさと帰ろうとしたところ、教室から何やら声が聞こえる。
ボクは教室の後ろの戸をこっそりと開け、中を覗くと。そこで目に入って来たモノは、黒魔術同好会(?)の、何らかの儀式の光景であった。教室の中央に描かれた直径2メートルばかりの魔法陣の中には。幾つかの燭台や、赤い液体の入ったコップと共に、誰かの体操着が据え付けられていた。
その傍で呪文らしきモノを唱えているのは、ウチのクラスの、秀才だが目立たない、外目にもネクラな女子だった。ボクは恐ろしくなって一目散に逃げ出し。帰宅後に自分の体操着の上だけ無い事に気付いた。
噂によると、どうやら彼女はボクに気があるらしかったが、それに対してボクが何らかのレスポンスを示した事は無かった。何よりボクは彼女と喋った事も目を合わせた事も無かったし、無視する以前に気にも掛けていなかった。
ボクが彼女に恨まれる要素など一つとして無い。あの儀式はボクに対する怨念で無い事は確かだ。
翌月曜日。
ロッカーを開けると、洗濯された体操着がきちんと折り畳まれてあった。もしも魔術や呪いと言う形で、ボクが彼女に恋に落ちてしまったとしたら。それを思うとボクは得体の知れない恐ろしさと共に憤りを覚えた。同時に、超常の他力を行使する事で、人心を掴もうなどと言う気味の悪い考えを持つ彼女に激しい軽蔑を覚えた。
以降、二学期が終わるまでの3週間あまり、ボクは3年間も同じクラスにありながら、今まで全く気にもかけなかった彼女の事を酷くイジめるようになった。
先日の教室での出来事を吹聴し回って皆を煽動し、それにより彼女と親交のあった者さえ、彼女を敵視する様に仕向けた。彼女の教科書は隠され、捨てたられ、ロッカーにはゴミが詰め込まれた。そんな幼稚で陰湿な、集団的イジメを。
それから。正月を越し、センター試験を間近に控えた三学期の始業の日。
ボクが遅刻して教室に入って行くと。廊下側一番前に席を構えていた彼女の机の上には、菊の花束が置かれていた。親御さん曰く、事故との事だったが。真相はわからない。
ボクはクラス総員参加の墓参りや、そんなモノ全てを拒否し。以降その記憶を封印した。
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