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2度目の月命日

今日は2022年7月27日。
愛犬が旅立って2ヶ月経った。

5月27日に逝く前の10日ほどは苦しそうな呼吸をずっと繰り返していて。愛犬の苦しそうな様子をただ見守るしかできなかった我らとしては…結構な地獄の日々だった。目をそむけることもできず、現実逃避として安楽死させてあげる選択もせず。回復することはない、死に向かって緩やかに進んでいる愛犬に寄り添うことしかできなかった。

愛犬は死をもって苦痛から解放され。我らも愛犬が苦しんでいることに寄り添う日々から解放された。同時に…愛犬を失った。

2ヶ月経った今、あるいは「もう苦しむしかないんだから安楽死をさせてあげておけば良かった」という後悔があるかと言えば…全くない。
ある後悔としてはあれだけ呼吸が苦しそうだったんだからもう効率的に呼吸ができる何かを導入すれば良かった…例えば酸素カプセルのようなものとか。

死に向かっているとは言え、少しでもQuality of lifeを上げる努力をすべきだった(かも?)という後悔はある。でもそれはただの「たられば」。

逆に安楽死を選んでいたら?
絶対に起こらないとは言え、もし万一、愛犬の状態が急に改善する可能性を安楽死を選んだことでスポイルしたしまったという後悔をずっと持っていただろう。…でもこれも、物凄く陰惨な最期を迎える可能性を消し、安らかな死を皆で受け入れるという選択でもある。結局愛するペットに対し考え抜いた結果の選択であればどれも正しいのだろう。

「間違った選択はしていない」と納得させつつ、愛犬が存在しないこの世をいかに生きるか?を考え、なんとかやってみているのがこの2ヶ月だったりする。

本当に、生活はがらっと変わったし愛犬の介護のために我慢していたことができるようになった。外食も旅行も飲酒も、本当に色々と制約がなくなった。自分の人生を自分の身の丈で生きられているのが今。愛犬のコンディションに合わせて生きる必要はなくなっている。

でも、言いようもない寂しさがあるのも事実。

ボケてしまってどれだけ愛情を注いでも喜ぶでもなく本能のままに生きていた晩年の愛犬ではあったが、見返りのない行為でも愛犬と同じ時を過ごす喜びはあったんだと感じている。

正直、死んでくれれば楽になれると思っていた。
実際、楽にはなったんだろう。

明日の朝、起きたら愛犬の死は夢で実際はまだ生きていて介護の日々は続く…ということが現実だったら?割と嫌だなーと思う自分もいる。過ぎたことは美しい記憶というつもりもないけど。

でも、寂しい。とても。

心に開いてしまった愛犬の穴は2度目の月命日を迎えてもまだまだ埋まりそうにない。

開いた穴こそ愛情の記憶…という慰めもあるのだろうが。

抱きしめた感触、匂い、触れ合うことで感じられるお互いの存在など。曖昧なものでなく確かなものを失った寂しさは…まだまだ続くのだろう。

乗り越えようと思う。そして乗り越えられるとも思っている。

日々、寂しいだけで過ごす気もないのだけど。

月命日の今日、改めて「あぁ、まだまだ寂しいんだなぁ」と感じたので素直に記録してみた。

さて。現実世界に生きる身として会社に行ってこよう。

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