距離もやさしさの一つ

大学時代は、自己承認欲求に溢れた4年間だった。
高校時代まで交友関係が狭く、目立たないように生きてきた反動で、大学に入って多少無理をした。

知り合いゼロからのスタートは小学時代の転校で経験していたので、さほどの抵抗はなかったものの、今まで所属していたコミュニティと物理的に隔たった場所に来てしまったため、頑張った。
SNS、学生組織、アルバイト、その他諸々の交友関係。趣味。留学。研究。

高校卒業まで友だちが少なかったのに、大学に入ったら多くの友人に恵まれた。

人前で話す抵抗もなくなった。
むしろ、人前で話すことが好きになった。

外交的になった。
初対面の人でも話せるようになった。

それなりにアルバイトにも励んだ。

好きな音楽が増えた。
趣味繋がりの人間関係に恵まれた。

ユーラシア大陸をひとっ飛びして、ヨーロッパにも留学した。英語の能力も多少、上がった。

得るものが大きかった反面、力が入っていたのだと思う。たぶん、これらのモチベーションは承認欲求にあった。

事実、他者からの視線が遮蔽された自粛期間、わたしはあらゆることのモチベーションを失った。やるべきことが見えなくなった。

とりあえずTwitterにやりたいことリストを投稿してみるも、どうもしっくりこない。

この2年はしっくりくるものを探す2年だった。嘘に塗れた志望動機をいう自分に疑問をいだき、いったん院に進むことを決めた。一年後はどうなっているのだろうか。間違っても「成長第一」みたいな体育会系マインドの組織には入らないで欲しい。

集団のなかに溶けているのが楽だと思っていたが、ある程度の一人の時間がないと体調を崩しやすいことに気づく。たぶん、過剰に気を遣っているのだと思う。誰かと過ごした後は、表情筋が疲弊している。

たぶん、個人と個人の垣根が取っ払われるくらい、組織のなかには入り込まない方が良いのだろうなと思う。承認欲求で塗りたくられた、かつてのわたしは自己を失うくらい、組織にの中に入っていた気がする。

大胆で怖いもの知らずの性格の友人が多いのは、憧れがあるからだと思う。

宿題をサボり、期限より10日遅れて提出し、目玉をくらうも涼しい顔をしていた高校時代の友人は、今も定期的に連絡を取っている。

「〇〇は本当に真面目だよね、わたしには無理だわ」 
美辞麗句を一切連ねず、本音ばかり話す彼女の言葉は信頼できる。

わたしの真面目さを褒めてくれる一方、「いや、わたしにはできない」と言う。けれど彼女は私になろうとしない。「仕方ないけど、これがわたしなんだよね」と受け入れる。

彼女は人に媚びない。そもそも人に対する関心が薄い。
人がどうなったって、どうでもいい、と言う、
だから私は一切彼女に対して気を遣わない。
彼女も私にあまり気を遣わないので、非常に楽。

承認欲求からのお節介を重ねていたな、と思う。
後輩と仲良かったのも、たぶんある種の自己承認欲求に起因するんだろうと思う。いい先輩になろうと必死だった。先輩にやってほしかったことを出来るだけやろうとした。

本当はこんな人じゃないのです…後輩よ(もし見てくれている後輩がいれば、ごめんなさい。人にはいろんな面があります。あとお節介してごめんね)

必要以上に気にかけるのも、心の不安の要素になる。
ある程度無関心でいるのも、もしかしたら相手にとって楽なのかもしれない。優しさ、とは違うけど、心のざわつきを収めるためにも、放置という方法をとることも選択肢にいれる。〇〇すべき、の呪詛には負けない。

そんなアップデートをしたいので、まずはSNSから離れることにした。頻繁に投稿していたInstagramとTwitterのアカウントからログアウト。いわゆるデジタルデトックスってやつ。

痛くて、必死だった私に、さよならを告げたい。
(あー、書くこと自体が痛さを含んでいるので、難しい。痛さを捨てたら何も表現できない)

というわけで、デジタルデトックスするなかで考えたことをここに置いていこうと思う。

卒業、就職、進学で、人間関係が変わるタイミングで必要な時間かもしれない。

来月はアルバイトやら何やらの予定が詰まっているので、1日ををゾーニングすることから始めたい。

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