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当たり前のことを書いてもいいのではないか?

何か面白いもの、意味のあるものを書かなくてはいけないと思いがちだ。しかし、読む側から見ると、そこまで変なものを書かれても困るというのが本音ではないだろうか。

読むことに劇的なものを求めていない。むしろ、当たり前なことに「そうだよね」と頷きたい。劇的なものに出会ってしまうと少し困る。

自分を変える、あるいは変えられる体験は恥ずかしい。強く自分を意識するからだろうか。

むしろ自分を改変する行為は人知れず夜な夜なと行われることが多い。自己啓発書は隠れて読む。日記を書いていることは誰かにばれたくない。映画館は暗闇である。そんな、心の闇というような秘密の部分をどうにかする事によって人は自分を確かめていく。

誰かに説得されても、わからない。むしろわかりたくない。だから劇的なもの、自分のアイデンティティを揺らがせてしまうものは、あまり街中で出会いたくない。読んでいることを履歴に残したくない。

とりあえず人前では、安定した自分でいたい。傷付いたり、成長したりするのは自分で、勝手にするんで。

自分の奥底から出てきたものよりも、「これってそうだよね。」という感じで書いたものの方がみんなにうなずいてもらえる。それはそうだ。

文章では、いきなり目の前で泣き出したり歌い出したり大袈裟に凹んだり、ミュージカルも顔負けの感情表現ができる。意外と知らないうちにそうしている。真顔で「世界を変えてやる」と書いていたりする時がある。書いている方も気がつかないものだ。

文章において難しいのは自分がどのように読まれるのかを本当に客観的に理解して書くことだと思う。表情筋も動かないし、目の前に人はいない。都合の悪い事に、言葉の表現力は実際に会って話すことよりも雄弁になる時がある。

もっと当たり前のことを書いてもいいのではないか?

冷静に引いてみるとこの発想が生まれる。

「ありきたりなことしか書けない」と嘆くのではなく、「案外これでいいのではないか」と思ってみる。世の中に、文豪しかいなくなったら息苦しい。雑談ができず、議論しかできなかったら、寂しい。

ときには、そうだよね。とただ頷きたくなる時もある。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!