言葉で超えていく
キリン、あり、電気スタンド、お茶、チョコレート、消しゴム、人間、愛、モーリシャス。
これらに共通するものがある。
わたしは何を書きたいのだろう。とあれこれ考えることがある。しかし、考えたところで結局、書き始めてしまったらその考えは消えてしまう。目の前にある言葉、という現象に圧倒されて、ただ指を動かすのみである。だから、何を書こうかという考えは言葉の質感から離れた考えであって、本当に言葉をみて思ったことではない。言葉の前では、何を書こうかなんて悠長なことを思っている暇はない。次々と流れていく言葉を捕まえるためには、思いついたらすぐに書かなくてはならない。そうでないと、永遠に文脈を逃してしまう。
流れにもまれながら書いていたのだが、そのうちに景色が見えてくる。言葉で書いているなら、それがなんであってもいい。論文でも、レポートでも詩でも小説でも随筆でも。それらは全て言葉で書かれている。そう、先に挙げた言葉、キリンもありも、電気スタンドも他のいかなる言葉も、「言葉で書かれている」という共通点を持っている。どれだけかけ離れたように見えていても、その違いは言葉で説明される。詩や小説や、境界線があるように思えるが、それらは全て言葉という平面でつながっている。
書いているときは、思考と現実、物と心が溶け合っている感触を覚える。それは、全てを言葉で語るからだろう。言葉が広がっていくと同時に、わたしの中にある枠が崩れ去って目の前の物体と溶け合う。感情も、ゆるりと解放されて体に染み渡っていく。それが気持ち良い。だから、書くだけで満足することができる。書くだけでもう、わたしは言葉の流れに参加している。
人に読まれることを意識しないのか? という質問があるかもしれない。確かにあまり意識していない。「読まれる」ということの根元を考えると、書いていればいいと思えるからだ。言葉で書くということは、その瞬間に今まで使われてきた言葉のルールを踏襲していると言える。書きうることは、言葉の持つ可能性の中の一つとしてちゃんと許容されている。「あり」も「動く」も「ちょいぴょんぴょん」も、言葉のルールから生み出されたもので、読みうる物だ。もちろん、「人に」読まれる、という面では、あまり人間向きな言葉の選び方を考慮していないかもしれないが。しかし、猫のアイコンを使っているとはいえ、わたしも人間である。あまり、逸脱した言葉を書かないように勘で制御している。気が合う人なら読んでくれるかもしれない。
言葉にならないものは? とも思う。「あり」も「キリン」も「ちょいぴょんぴょん」も言葉なのなら、言葉にできないものはどう表すのだ? とも考えられる。確かに、言葉にできないものもある。だから、わたしたちは言葉という平面の上に立っているのだろう。言葉に支えられた存在であるとともに、言葉を超えた何かを含む存在である。だから、言葉にできないものを把握する。「言葉にできない」ということを頼りに把握する。
もっというならば、言葉という平面によって映し出されたホログラムのようなものがわたしたちかもしれない。ホログラムは平面でできているが現象としては立体的な像を作り出す。すべてが言葉で還元できるという考えは単純かもしれないが、書いていると直感的にそう思う。宇宙によって偶然に生み出されたわたしたちの物語も、どこかにある書物に記されているのではないか。そして、その書物も、今わたしが書いているもののように自由気ままに書かれた随筆なのだ。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!