自分を柔らかくすること
習慣にしていること、と考えて私が思いついたことは、「自分を柔らかくすること」です。お風呂上がりに、柔軟体操をすることではありません。自分の心の構え方といったところでしょうか。心を柔らかくするのです。
いつも、何か物事が目の前に起こったとき、私の心がとる最初の反応は、なるべくその物事をそのまま受け取るという姿勢です。人が悲しいと思っていたら、ああ悲しいのだな、とそのまま受け取ります。嬉しいことを言われたら、そのまま嬉しくなります。よくいえば素直、悪くいえば…何ていうのかわかりません。悪く言っても素直というのかもしれないです。
しかし、常に素直さを外に出すことはできません。思ったことをそのまま言ったら怒られる時もあります。だから、素直な気持ちを抱えたまま黙っているということがよくあります。自分は、表面的な態度と、心の中で動いている感情がズレていることが多いと感じます。
ここまでは、習慣というよりも私自身の「性質」の話です。しかし、習慣とは性質を元に作られるものだと思います。私の、その素直さを元に「自分を柔らかくもつこと」という習慣を実行できているのかと思います。
自分を柔らかく、とはどういうことかと言いますと、端的に言って「自分で自分を決めつけない」ということです。自分の苦手なことや、得意なことはなんとなく自分で把握しています。しかし、苦手だということをそれをしない理由にはしないということです。また、得意だからといってそれにこだわったり同じことをし続けたりしないということです。
やれ、と言われたらやります。それで、体を壊しかけたことがあるので素直すぎるのかもしれないです。苦手だったり、自分では無理だと思ってもやらなくてはならないと思ったらしてしまうと思います。少し、危ういと思います。なので、素直さを発揮するときは、保険として自分の外側にもう一人の自分を置きます。もし自分が危ないと思った時は、無理にでも、もう一人の自分で自分の安全を確保させます。実は、素直すぎて体を壊しかけたとき、周りの人に言われて初めて気づいたのです。それから、素直に頑張りすぎている時の自分はあまり信用ならないと考え始めました。
あまり自分を過信していません。それはいい意味でも悪い意味でもそうです。「これができない」と弱気になる自分を私は信用しません。やってみなければ分からないと思って、ただやってみます。逆に、今自信を持ってやっていることもあまり信用していません。少し調子に乗ってるなと思うと、不安になってやり方を変えてみます。自分を柔らかく、ということは足を一歩前に出しつつももう一方の足ではすぐさま違う方向に進めるように構えているような姿勢です。
それは、素直な自分をよく活かす方法であると同時に、自衛する方法であるとも思います。単純に考えるのではなく、根本的に考えることです。自分の目の前に起こっていることに、素直であり続けるための構えです。間違ったり、失敗したらすぐさま引き返し、自分にできることがあれば逃さずに掴みたいという姿勢です。
そのような構えが自分の中にでき始めたのは、「他の人が言っていることを理解したい」という思いが湧き上がってきた頃からです。他の人とどうしても分かり合えないという経験がありました。自分で、言いたいことがいえず、さらに、何もいえずにいることが誤解を広げてしまうという悪循環に陥ってしまったことがあります。
そのときに重要なのは、相手のことを受け入れることでした。そして受け入れた結果、自分の心の中で何が起こっているのかを素直に相手に伝えることです。
私が、他の人に誤解を与えてしまうパターンは、自分の言いたいことがいえずに我慢してしまうことです。我慢してしまうのは、明確な「自分」というものが自分の中にないからだと思っています。自分がないと、他の人の意見を受け入れる立脚点を持つことができません。相手の言っていることをすべて鵜呑みにすることは、受け入れることではなく、それは自分を蔑ろにしていることだと気がつきました。そして、それは結果的に相手のことも蔑ろにしてしまいます。
そのことに、気がついてから私は「自分」を持ちたい、と思いました。そして、他の人のことを受け入れることができる、柔らかい自分を持ちたいと思いました。
これが習慣だ、と初めからわかっていたわけではありません。自分特有の失敗を繰り返しているうちに、自分の心の構え方がわかってきました。ようやく意識的に、自分にないものを受け入れよう、自分とは違うものを楽しもうとできるようになりました。
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