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人は焦ることができる

人は焦る。焦っている人は見てわかる。パタパタと走っていたり、早口になったり、イライラしていたりする。行動にではっきり分からなくても、内心で焦流こともある。焦っている自分に気がついて、どうしてこんなことも待てないのだろう、と幻滅することがある。

人だけが焦るのではないか。今を生きている動物は焦ることはない。人は未来のことを考えることができるので、時間に間に合わないことを予測して、焦ることができる。「ことができる」というのは、一つの能力とも言えるからである。焦ることで、時間に間に合わせることができる。そういうときはちゃんと理由があって焦っている。

焦るのが悪い、と言われるのは漠然とした焦りである。何かの期日が迫っていて、何かの目的をそれまでに達成しなければならず、なんとなく焦っている。というような状態だ。なんだか、漠然と焦っている人を見ると落ち着かない。焦っている方も、何を頑張ればいいのか分からない。それがいっそう、自分をまた焦らせる。できることなら、抜け出したいと思う。

それに比べて、焦っていない時を思い出してみると、なんと優雅なものだろう。仕事と全く関係のないことができる。散歩したり、読書をしたり、一日中趣味に費やしたり、静かに瞑想したり。焦っている状態と比べれば焦っていない方がいい。

焦りは不快な感情だ。できることなら焦りたくない。しかし、焦ってしまう。なぜなら、人間は焦ることができてしまうからだ。という哀しい論理がある。むしろ焦らなきゃいけないと分かってて、悠々としていたら怒られる。焦ることができる、という前提のもといろいろなことが回っている。

その不快感が、「焦りとは何か」を考える手掛かりになる。焦るときの心は苦しい。チリチリと焦がれるように痛い。それがこじれると焦りが焦りを呼び、自分が自分でないような感覚を覚える。普段なら簡単にできることが、焦るとできなくなる。これはとても悔しくて、もどかしい。

どうして不快な気持ちになるのだろうか。具体例で考えてみよう。

バスに遅れそうで、走っている人がいるとする。その人の形相は、必死で焦っているようである。結局間に合ったみたいで、ほっとしてバスに乗り込んでゆく。

一方、同じ走っている人でも、こんな場合はどうだろうか。「走ったら間に合う」と分かっていて、毎日、家を出てからバス停まで走って通っている人である。彼はこの時間帯に、家を出て走っていけばギリギリ間に合うと経験で知っているのだ。もちろん、こんな危なっかしい計画でバスに乗る人は少ないと思うが、焦っていないだろうことは考えられる。この人にとっては、歩いてバスの時間に間に合うと分かっている人と同じように、焦りがない。

同じことをしていても、焦っている人と間に合わせている人の心理状態は違う。そして、その結果が同じであるのにもかかわらずである。その差が生まれるのは、結果が分かっているかどうかである。

焦っている人は予測はするけれども、間に合うかどうか分からないのだ。そういう面では、あらゆる焦りには、漠然性があるといえる。そして、漠然性こそが焦りの原因である。走って間に合うと分かっているという確信を得ているならば、焦らない。

焦りの不快感とは、この「漠然性」にさらされる不快感と言える。バスに間に合いたくて走っているが、間に合うかどうか分からない。もっと足を早めた方が、間に合う確率は高くなる。だから、焦っている人はさらに焦る。しかし、それで焦りから抜け出すことはできない。最終的にはバスに間に合うか、間に合わないか、と結果が確信されて初めて焦りがなくなる。

そこから、焦りをなくすためは漠然性を作っている不確定要素を取り除くことである。結果を知る、というのは単刀直入な方法だ。もう間に合わない、と時計を見て判断したら、走るのをやめるだろう。経験的に、この時間なら間に合うと知っていることも漠然性を減らす。

また、自分の速さを自覚することができれば焦りはなくなる。速さから、目標までにかかる時間を計算していつ出発すれば良いのか判断するのである。バスに走って間に合うと知っていた人は、文字通り自分が走る速さを知っていたのだろう。他にも、仕事の速さ、ある技術の習熟の速さなども、間に合わせるためには必要である。

しかし、大抵の場合、正確に速さを予測するのは大変だ。不確定要素が入り込んできて、予定よりも大幅に遅くなった場合、焦るどころか間に合わないこともある。ある技術の習熟などは練習量に比例して達成されるわけではなく、いつ目標のレベルに達するか分からない。

そこで、正確に予測するのを諦めてることも必要になる。バス停で、走らずに待っている大半の人たちは正確な速度計算よりも、「早めに家を出る」という確実に間に合う結果を選んだのである。また、技術の習熟スピードなどは自分のペースで継続するということが確実性を取る方法である。早く上達しようとする練習よりも、確実に上達する練習をした方が良いことになる。

そもそも、速度が計算できないものを間に合わせようとするのは理不尽ですらある。焦ってはいけない、といわれる状況はその場合が多い。「早く大人になりたい」という少年に「焦らなくていい」と大人は言う。実はそう言う大人も、少年がどのぐらいのスピードで成長するか知らない。しかし、一つ言えることは「いつか大人になる」ということだ。大人の方も、そうやっていつの間にか大人になったのだ。あるいは、いつも焦り気味の新入りに、先輩が「焦らなくていいよ」と声をかける。この場合、新入りが仕事のやり方を覚えていくと、仕事の速度感などを計算できるようになり、焦らなくなるのである。少年のように、「いつか」というのではなく、具体的に計算する方法があるのなら教える方がいい。

初めから「焦ることのない」方法もある。

先ほどの例の「焦らなくていい」というのは、結局は何かに間に合うためのものである。全ての執着を捨てて、堂々と遅れてもいいというわけではない。しかし、そのように「結果がどうでもいい」という状態になったとき、人は焦らなくなる。そもそも間に合わせようとしなければ、焦ることはない。

遊びや趣味を楽しむ人は、焦っていない。何かに間に合わせようとすることがないからである。何かに達する過程そのものが楽しいからだ。焦ることの原因となった「漠然性」を、楽しみの原因にすることもまた出来るのである。

「恋焦がれる」と言う。恋もまた焦りである。自分と恋愛対象の人との心理的距離の間で、人は焦る。自分の進む速度で相手に届くだろうか。当然、分からない。道が続いているかどうかも分からない。そうだからといって、人は恋することをやめないだろう。恋愛の経験が苦しくも充実しているのは、その漠然とした過程に何か意味のあるものを見つけたからだろう。分からないものに身を置くことなしには、手にできないものもある。そう気がつけば、恋焦がれることは楽しい。辛くても痛くて苦しくても、楽しい。

焦らなくてもいいが、焦ってもいいと言える。むしろ「焦らない」ということで全ての漠然性が計算され尽くし、排除されることは面白くない。人は焦ることができる。焦ることの中に価値を見つけることができる。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!