書き重ねる:2020/11/26

時々書くのが楽しくなってくるときがある。もちろん毎日書いているのだから、その間は楽しいはずだ。つまらなかったら続かないから。なんとなく楽しいのが次第に本当に楽しくなってくる。

それは本当に些細なことである。私のパソコンには自動変換機能があるのだが、あまりその良さに気がつかなかった。自動変換があるのにいちいち変換ボタンを押して変換していた。たまたま、自動変換なのだから変換ボタンを押さずに書き続ければいいというコツを教わり、それを試してみたところ、書くことにかかる手間が少し減った。それだけで嬉しくてどんどん書きたい気持ちがある。

「書くこと」という一言でまとめられてしまうのはあまりにも多い。書くことは、パソコンの前に座って、電気スタンドをつけ、落ち着いて一人になれる場所を探し、気が向かないなら好きな音楽をかけて、それからやっとnoteにアクセスして自分の頭に浮かんだ言葉を文章の形に並べていく作業のことである。その中に、文字を変換したり、ボタンを押した時の指の感触と頭の中で浮かんだ言葉の間のやりとりも含まれている。

いつも、思い浮かんだ言葉がいかにスムーズに言葉になるのかどうかを気にしている。一番いいのは手書きでノートに書くことだ。指の動きや呼吸が直接文字の動きや形につながっている気がする。noteに投稿するときは、仕方なくパソコンで書いているようなものだ。ボタンを押す指と、表示される活字がいかに呼吸を合わせるか、それが大事だ。

毎日、同じテーマで書いているが、それが生きてくるのは言葉と私の関係性が密接になるときだと思う。言葉が私に近いほど、そこにいる私の呼吸や心情、考えたことが言葉に出てくる。それとは別に、冷静に書いてしまえば私のそうしたゆらぎは言葉に伝わってこない。

だからあまり考えていないし、考えずにそのまま出た言葉の方が良い。最近、音楽を聴きながら書くことができるようになった。それは、音楽が書くことのめんどくささから私を解き放ってくれるからだと思う。聴きながら思いつくままに書けばいい、その意味を問わなくていい。それが楽で、気が乗らないときはそうやって書いている。

前は、全くの白紙の心で書かなくてはならないと思っていた。しかし、純粋な書くことなどあるだろうか? さっきも書いたように、「書くこと」はすでに様々な要素で成り立っている。書くことだけを取り出して語ることは難しい。「書くこと」と語ることで言おうとしているのは、指を動かし、頭で言葉が生起するあの肉感を捉えられない。どうしても静かに動きを止めた書かれた後の文章であったり、その質についての話になってしまう。そうではなく、私が書きたいのは「書くこと」にとまとまっていくすべての物事の流れにあるのだと思う。

どこまでが書くことで、どこまでが書かないことなのだろうか。私が書いた言葉に影響を受け、その言葉で誰かを動かしたとき、それは私から書くことが広がっていったのだ。もしも、私が他の誰かの言葉に動かされて、新しい文章を書いたとき、私は書くことを誰かから受け継いだのだ。私がこの宇宙の小さな部屋で書いていたとしても、一人で誰にも読まれない文章を書いていたとしても、私の頭の中には他の誰かの言葉があり、それを結びつける私がいる。実際にこの机に、この椅子に座って、この指を動かして、この宇宙でものを書いている。

宇宙というと、写真で見せられたあの星々が散らばっている暗い空間をイメージしていた。しかし、書くことから見出す宇宙はそんなものではなく、言葉があって、机があって、私がいて、指を動かしていて、パソコンがあって、音楽がなっていて、そして言葉がこれから旅立っていく、どこまでも具体的で、私に創造可能な宇宙だ。「宇宙」も、「書くこと」も、全部本当にある。本当に、色々なものに支えられて、私の目の前にある。

書き重ねることは、そうした書くことを繰り返す作業だ。おそらく書くたびなんらかの言葉が何かを揺らして、なんらかの世界が消えては生まれ、前に進んでいく。それだけ……それだけのことのように見えるが、それで十分かどうかは人により、私による。その時々の、私による。それらは全部違うからその違いを、書き表すためにはそれぞれの私が書かないといけない。手触りを確かめるように、肌理を感じるように、また頭のどこかにある言葉を生み出す仕組みにアクセスする。指を動かす、音楽を流す、座って呼吸を整える。その繰り返しをいとわない。どうでもいいとか素晴らしいとか考える前に、ただ書くことがこの宇宙に起こしていることを感じてみる。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!