書き重ねる:2020/11/29

毎日同じタイトルで書くこと、そしてその違いを観察することを「書き重ねる」と言っている。のだと思う。それがどんな意味を持つのか、どんな文章を生み出すのやよくわかっていない。少なくとも、わかっていて、書きたいものがあって書くような「表現」ではないと思う。書くこと自体を問いかけることができればそれでいい。

わかりやすくもがくことはできない。わかりやすく表現できるならそれはもう、そのまま書けばいいのであって、わかりにくく書くことは怠惰だと受け取られることもあるだろう。私は、わかりやすいことを思いついても、わかりやすく書いたり、修正したりすることをめんどくさいと思うような気質なのかもしれない。わかりやすいことを考えるのもめんどくさくなってきて、わかりにくいことを初めから、わからないまま書くことに安らぎを覚えるようになった。

それは、一方で私はわかりにくさという衣に身を包んで他の人との関係から逃げていることかもしれない。「私は私の勝手にする。」と言ってしまうことは、他の人から自分を孤独にすることであるし、自分の行動が他者に影響することをあきらめることでもある。「人それぞれ」と言ってしまうことは、一瞬だけ自分を自由にする感覚がある。人それぞれなら、自分は何をやってもいいし、他の人が何をやっていてもそれに対して怒ったり、不快に思ったりする必要はなくなるから。

できれば、わかりやすくもがきたい。「私はわからない。」「私は知りたい。」「私は考えていたい。」「私はもがいている。 」胸を張ってそういいたい。言えるようになりたい。そうしたら、もがいている自分を受け入れて、よくわからない他の人をよくわからないまま受け入れられるかもしれない。少なくとも、孤立することはない。自分を受け入れるといっても、それはまず誰かに自分が自分であることを教えてもらわないといけないだろう。だから、自分を受け入れるとは受け入れてもらうことでもある。

どうしようもないところまで行って、もうこれ以上先にまで進めないところまで行って、疲れるまで走って、やっと私は納得する。大抵そういう場所には、海や空があって、つまらないと思って仕方なく走っていたとしても、ついたらその景色に穏やかになる。そして、いつの間にか引き返して、ゆっくりと家に帰る。また気が向いたらそこに行きたくなる時がくる。

「書き重ねる」とはなんだろうか? そう問い続けることができるのなら、そう書き続けることができるのなら、わかりやすさを犠牲にしても良い。はっきりと、「これが書き続けることだ」と言えなくてもいい。そうやって、固まった概念としてこの運動を閉じ込めるのはもったいないと思っている。

「書き重ねる」とはなんだろうか? そう問い続けることができるのなら、いつまでも書き続けることができる。これは明確な言葉をえぐり出す作業ではなく、言葉の豊かな感触を磨き落とす作業ではなく、しかし、どうでもいいと妥協することでもない。揺らぎ揺らいでいて止まることのないまま、その自分に気がつくことができればいい。立ち止まるのではなく、動きながら、私は私を感じていたい。

と、ここまで書いたところで何も思いつかなくなってしまった。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!