2020/12/08

書くことは、世界との並行関係を保つことである。

である、と言い切ってみる。

人の話を聞きながら、書くとなんとなく人の話とは別の文章が書けてしまう。話が飛んだり、内容を忘れたりするが、自分と相手が話していて一緒にいるという出来事の記憶だけが残る。

内容に沿った文章を、学校の教室でノートを取るように書くと、それは私の「書く」感触は失われてしまう。書くための自立した精神が失われて、ただ他人の言葉を書き写しているときの受動的な体がぽつんとそこにあるだけになる。

言葉を、自分が書ける言葉だけを、ひたすらに書く。

人の話は聞いていない。仕方なく書けるものだけを書いてしまう。人の言葉をうまく受け取れない。その人が想定したようにではなく、自分が自分で受け取れるようにしか受け取れない。

話を聞いてわかったとか、人と分かり合えるとか、あるいは言っていることが通じるとか、うまく書き表すとか。それはどれだけのことを、どれだけ制限した時に本当に言えるようになるのだろうか。それはそれは、特別なものであるけれども、私たちは大抵の場合、通じ合っていない。通じ合おうともしていない。そもそも、通じ合えないこともある。そもそも、そもそも、通じ合うことにそんな大層な意味があるのか。「通じ合えない」ことに絶望するほどの価値があるのか。通じ合えなくたっていいじゃないか、という言葉は励ましになっているのか。

むしろ、通じ合いたいとか、合いたくないとか、どうでもよくて、ただそこを一緒に走っていると認識するだけでも十分なのではないか。

だから私は書くことで、誰も説得できなくてもいい。私が私であることで、誰かと自分を分けてしまっていてもいい。変に、繋がろうとしなくてもいい。何か意味があるものを書くことができなくてもいい。ただ書き続けていればいい。

ただ書くという運動は、勝手だし、どこに繋がるというわけでもない。だから、この世界にあり続けるのだけれども、結び目を持たない。むしろ、世界がそこにあるのに、あえて勝手にわざわざ書く。他の人が色々言っていて、色々な世界観、文章、作品があるのにあえてわざわざ書く。時には身を削って書く。

それは、世界に対して自分が平行にあり続けるためにそうしているのではないかと思う。

もし、自分が世界に対して、生まれてくる何かに対して、誰かに言われたことに対して、身に降りかかることに対して、ただ聞いていることしかできなかったら、ただそこにいることしかできなかったらどうだろう。私は、授業のノートを取るように、それらを書き写すだけで、終わってしまうだろう。そしてしまいには、ノートを取ることすら退屈になって、眠ってしまうだろう。もしかしたら、そんな私は教室にいられないかもしれない。

だから、話されている言葉を耳で受け取りながら、私は全く別の自立した文章をここに構築する。さまざまな音楽が鳴り響いている、色々な人の色々な感情がこだましている。そこにあるのはわかっている。けれど全部を拾うこともできないし、理解することもできない。

だから、私は書いてしまう。書くことで、言葉が導いてくれるように運動する。その時だけは確かに、迷いなく指は動いて、私は安心する。ふと周りでなっていた音が飛び飛びになる。私はそれらをちゃんと聞いていられない。書くことに夢中になると、それらの存在を忘れてしまう。忘れたいがために夢中になっているのかもしれない。目を背けることと同じかもしれない。それでも、書くためには閉じこもらなければいけない。

確かにそれは立派なこととはいえないけれども、私はそこにいたと言えるのではないだろうか。夢中で書いている私を上から見たら、ちゃんとそこにいて、私は私で、周りで鳴り響くあらゆる音は、その音のままで、混じり合うことなく一緒にこの世界を進んでいっているといえないだろうか。そのことに私は気が付かないし、確信をもっていえないのだが。

揉み消されぬように、書く。

どうせ書いたとしても、大きな影響を与えるわけではない。卑屈に聞こえるが、それが救いでもある。私は私の分だけを書けばいい、私の言葉で遠慮することなく書きたいことを書けばいい。そうすることで、おそらく平行に進む線は増えるだろう。私とは別の道を、私を横目に進んでいく線は増えるだろう。

平行であればいい。

書けることを書いているだけで、なんとなく私は私の居場所を作っている気がする。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!