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さみしさの音

あなたがいないから、さみしい。
あなたが、いない。だから、さみしい。
そうやって、さみしいことを他人のせいにしていた。けれど、わたしがさみしいは、わたしがさみしいからであって、べつに「あなた」が悪いわけではない。と、気づいた。

わたし一人がさみしいんだ、と気づいた。

それから、わたしはちゃんと「さみしい」と言えるようになった気がする。

さみしい。
さみしい。
さみしい。
さみしい。

冬の空の晴れ方のように、スッキリとしたさみしさ。晴れ渡っていて青く、底がない。遠くまで見えるようで、一枚の絵のように奥行きが壊れている。

窓際のテーブルに、紫色の巾着から、おはじきを取り出して並べた。冷たいガラスの感触を感じながら、散りばめていく。冷たさから、ガラスの匂いを感じる。
一人で、あそぶ。
一つ弾くたびに、わたしは頭の中でガラスとガラスがぶつかる音を想像する。あまりにも小さい音だから、頭の中で想像して聞く。一つ弾くたびに、一つなくなる。
握りしめるのではなく、わたしは律儀に取ったおはじきを巾着に戻した。最後の一つになるまで。
水色のおはじきが残った。わたしはそれをどうやって取ればいいのだろう。最後の一つ、どうしてたっけ。わたしは思い出せない。

母は、優しかった。と思う。
優しすぎてよくわからなかったけど、優しすぎて言えなかったけど、世界の誰よりもわたしに優しくしてくれた。それだけは言える。
誰にとっても、お母さんってそうなのかな。「誰にとっても」という言葉の範囲がひろくなりすぎた世界にとっては、わたしの考えはわたしの考えでしかない。
でも、母は紛れもなくわたしにとって尊敬できるひとだった。
わたしを愛してくれたように、わたしも誰かを愛したい。

さみしい。
さみしい。
さみしい。
さみしい。

おはじきの音。
一つとる。
おはじきの音。
一つとる。

遠くで、トラックがアスファルトを強く、重く蹴る音。

さみしい。
さみしい。
さみしい。
さみしい。

冬に蝉は鳴かない。
けれど、ずっと静かな場所でいると、静かな耳鳴りが聞こえる。
蝉の鳴き声のように耳に張り付いて離れない。
今日はそれをずっと聞いていたい。

赤い、青い、黄色い、緑。おおきい、ちいさい、まるい。
どうしてみんな丸いの。
わたしは、不思議な気持ちになって、いそいでとる。
一つ、また一つ。
雨のしずくが、天に帰っていくように、一つ、また一つと消えていった。

とんとんとんとん
とんとんとんとん

切る音。

料理をするたびに、母を思い出すのは、わたしだけではないと思う。
「わたしだけではない」と言えることは、確かに増えた。

生きるために何かを切り刻むのは、わたしだけではない。
生きるために、でも……生きるということがよくわかっていないのに、なんとなく包丁を玉ねぎに入れていくのも悪くはない。

「わたしだけではない」といっても、さみしさの原因は変わらないのだが。

とんとんとんとん
とんとんとんとん

さっさっ、さっさっ

白い平面に、ブルーブラックの軌道が描かれていく。
「わたしは」
軌道が意味をなす。
さっ、さっ。
「わたしは、さみしい」
ここまで書いて、手が止まった。

ペンがなる音を聞いていると、落ち着くんだ。

書いているとき、わたしは夢中でペンが紙に擦れる音が鳴っていることに気がつかなかった。考えてみれば、ものとものがこすれているのだから、音が鳴るのは当然のことなのだけれども。
そう言われるまで、わたしは「ペンがなる音」を知らなかった。
毎日、毎日書いていたというのに。

「わたしは、さみしい」
もう一度書く。
さみしい。
さみしい。
さみしい。
さみしい。

さみしい。あなたがいないからさみしい。
そうじゃなくて、わたしが、さみしい。
あなたがいないから、ではなく、
わたしが、さみしい。だから、さみしい。

きっとあなたがいた頃から、わたしはさみしさを、わたしの中にもっていて
それにずっと気がついていなかっただけなのだ。
あなたがペンの音を教えてくれたように、
ずっと心の中でなっていた、さみしさの音にわたしは気がついていなかっただけなのだ。

幾何学模様の壁。
柔らかい襞のような壁。
灰色のスポンジの壁。
床も、天井も壁。
床は鉄の網が貼られていて、その上を歩くのだけれども、網の向こうは壁と同じ材質で、角ばった不思議な形のブロックがしきつめられている。

「無音室の中でも、音はするんですよ」
案内してくれた女性の声が、さっと消える。
「何の音だと思います」
わたしは耳を澄ませる。
静かな音。
聞いたことがある音。
懐かしい音。
わたしは思い出したくて、必死に目を閉じる。
目を閉じると、暗闇の中に僅かな光の残像が、とけていった。

光。光。光。光。
粒粒。
散りばめられた、光の粒。

この柔らかい部屋の空気に包まれていると、似ていると思う。
「星の音がします」

七夕の時に、母に連れていってもらったプラネタリウム。
古めかしい建物の中に、大きな丸い天井があって、使い込まれた赤いクッションの椅子が、並んでいた。
中心に大きな機械があって、天井を向いて立っていた。
暗くなる。
息を呑む音がする。


そう、あの時も静かだった。
みたこともない数の光の粒を見ながら、わたしは星の音を聞いていたのだ。
ナレーションのない、ただ空を見上げるだけの時間に、わたしは星の音を聞いていた。

「実は、それは体の中の音なのですよ」
声は、さっと消えていく。
「耳に流れている血液や、リンパの流れる音なのです。」

わたしの、体の中の音。

星の音。

宇宙の音。

それは、わたしの体の中の音。

しん……
小さなベルを耳元で鳴らしたような、澄み渡った音がする。
いつまでも聞いていたいと思った。

その日から、わたしは一人でいる時に耳を澄ませるようになった。
静かな場所が好きになった。
母と行ったプラネタリウムにもう一度行った。

土曜日の午後の空気は穏やかだった。
寂れたような思い出だったけど、建物は今でもしっかりしていた。
わたしの他にも、お客さんがいた。

赤いクッションに腰を下ろすと、懐かしい匂いがした。

さみしい。
さみしい。

さみしい。
さみしい……。

さみしいのは、わたしがさみしいから。
この、さみしさの音は、わたしの中の音。
あなたがいないからではなく、わたしの中の、わたしの音。

でもそれに気づかせてくれたのは、あなたなのかもしれない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!