見出し画像

形にしない

創作する、ことと矛盾しているようだが、「形にしない」ように創作することは可能だろうか。可能だとすれば、それはどのような形で可能だろうか。

思うに、私たちの日常は、そうした形のない創作と言える。作られたものであるのだが、明確な意味をなさないもの。ただ、そこにあるもの。

ただ、そこにあるものをつくりたい。放り出された言葉。思いつくままに、並べられた言葉。それは、形をもたない。だから、手に取ることもできないだろう。それについてよく考えることもできないだろう。

書きながら考える、思いつくままに書く、とだんだん創作のハードルを下げていくと、この世の中の様々なものが「創作」に思える。朝起きた時の挨拶も、ふとしたときにするあくびも。寝る時の姿勢も、それは何かの創作で、ひょっとしたら私の人生全体も見えない何かを作っていることになるのかもしれない。

文章そのものの純粋さに、一歩を踏み出してみたつもりだったのだが、一歩、歩いた瞬間に文章の特異性というものが見えなくなってしまった。ただ生きて、息をしているだけで何かの「創作」であるのなら、なぜわざわざ書く必要があろうか?

つまり、私が意識するままに書いてしまうと、逆に文章の純粋さが私の呼吸で汚れてしまうということか。私が書きたいときに書く、思いついたままに書く。そうすると、文章はそのために作られたものというよりも、生活の副産物にすぎないものになる。

自分を頑張って振り切ろうと、必死になるほど文章にその必死さが現れてしまうのだろう。そのように書かれた文章と、ただ純粋に考えたいことを考えている文章は違うと感じる。読む前に、書いている感覚で違うと感じる。

形にせず、形にならない文章。糸が形になって結ばれる前の文章。混ぜられた絵具の色が、一つになる前の文章。

あえて形にしないで書いてみた。

真面目に書こうとすれば捉えられない微妙なところを、自分でも持て余している。キャンパスに絵具を投げつけるように、白い画面に言葉を投げつける。

打ち込むのではなく、だらりだらりとなすりつける。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!