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ぼんやりすること、考えること

考えていない時間にも様々な状態があるのがわかる。ただ、何もせずにぼんやりしている時がある。考えていないときに、何が起こっているのか。そう言えば考えたことがない。

ぼんやりしながら考えていることもあるが、何も考えたくなくて、ただぼんやりしている時がある。

また、同じ考えていない状態にも瞑想状態というのがある。これは考えを自分で排除するような精神の動き方をする。頭の中に雑念が浮かぶと、それを自覚して呼吸や体の感覚に意識を戻す。この状態は、続けたくてもずっと続ける事はできない。体が疲れてくる時もあれば、していられないと精神の方から音を上げる時もある。

それに対して、ぼんやりすることには持続力がある。瞑想を長くするには文字通り修行が必要だが、ぼんやりすることは誰でもできる。そして、何分間も時間を忘れてぼんやりすることもある。

書きながら考えているのだが、言葉が思い浮かぶとき以外は、ぼんやりしていることに気が付く。その時の頭には、話し言葉は浮かばない。書き言葉が思い浮かび、その途端にパソコンに打ち込んでいる。これは、書き言葉以外の考えを排除する瞑想状態なのではないか。

自分の考えを制御するのである。書きたいことについて考えるときには考えつつ、手を動かして書く。それが行き詰まったら、一旦手を止めてぼんやりして待つ。また、文章が思い浮かんだら続きを書く。

一旦手を止める、その時間はわずかである。長くても15秒ぐらいだ。あまり長い間考えると、文章を書き進めれられなくなる。

次の文章を思い浮かべるための短い間には、意味があるように思える。文章が思いつかないとき、別のことを考えても良いだろうか。もし、じっくり考えて書くのであれば構わない。しかし、この時間で書き上げると決めている場合、別のことを考える事は意味のないことになる。むしろ、考えた事は全て文字にして書き起こそうとしている。文章において考えを進めている。そのプロセスの結果ではなく、過程も鮮明に書き表すことを目標にしている。

文章が思いつかず、手が止まるわずかな間は短い瞑想状態であると言える。何も考えていない時間だ。その短い時間に何も考えていないから、書くことに集中できている。その間が長くなってしまうと、雑念が入り込みやすく書く事は中断されやすい。その間に別のことを考えてしまうと、書く行為から意識が遠ざかるからだ。

ぼんやりしていないときが考えている状態なのだと、考えることを消極的に定義する。消極的だが、考えることの形が鮮明に見えてくる。

書いているときはとにかく考えていることになる。ぼんやりせずに書いているのだから。歩いている時も考えていることになる。何かしら意識的な行動をとっている場合は、考えている。行動から意識が離れると、考えはまたぼんやりに戻る。歩く例だと、歩くのに慣れてきたらまたぼんやりしてくる。

歩きながら考えることもできる。これは消極的というよりも積極的な考えることである。歩くことで考えが進むことを知っている。考えたくて考えている。これはどういうことなのだろう。ぼんやりしていない時、という定義からは説明できない何かがある。

書きながら考えるということも、積極的な考えのうちの一つだろう。

積極的に考えているときは瞑想状態に近いのである。意識的に意識をコントロールしている状態だ。考えたいことに注意を向け、考えに相応しくないものには意識を向けないことにする。

このある種の指向性のある意識が考えることだ、ということができる。指向性を保つためには、ぼんやりした意識を集中させなくてはならない。

考えの指向性を高めるためには、ただ考えるよりも、何かをしながら考えることの方が良いと思われる。書きながら考ることのいい事は、書くことに集中することで考えている状態が持続することである。また、考えた結果を文章として記録することもできる。ただ考えてしまうと、いつの間にかぼんやりしてしまったりする。それを避けるために、何も手元にない時でも人は考えるときは言葉を思い浮かべることが多いのではないか。頭の中で、言葉を操作することでその操作に集中することができ、考えが持続する。

何かをよすがにする考えは、持続しやすい。そして、文章などを書きながら書いていると結果が残る。

考えることは、ある種の状態であると言える。つまり、考えることそれ自体には目的がない。「考えなさい」と言われて考えるように努力はできるが、「これになる様に考えなさい」と結果を指定してそれを達成する様に考えるのは特殊な場合以外はできない。本当に考えることを徹底するならば、自分の精神に思い浮かんだことをそのまま考えた結果として提出するしかない。

考えることと、ぼんやりすることの違いは考えることは具体的であるということだろう。しかし、精神的な働きにはそれほど違いがある様には思えない。考えている時は、とにかく具体的な何かについて考えている。そして、書く、歩く、言葉を使う、など行動を伴っていることが多い。考える事は、身体的だ。そして社会的でもあるかもしれない。具体的に落とし込むことそれ自体が考えることである。ぼんやりした精神をいかに形にするのか。なぜ形にするのかと言われれば、それを他人と共有したり、自分が後で見てもわかるようにするためである。

一方、その内部で起こっていることは、精神の動きを感じることである。それはぼんやりすることと変わらない。しかし、ぼんやりすることはそれを形にしようとしたり、何か他人と共有しようとしたりすることではない。精神の動きをそのまま感じ取ろうとしているだけである。精神の遊びの様な物である。

考えることは、その精神の動きに自覚的になることだ。自分の精神がどの様に動いているのかを知らないと、言葉にもできない。芸術などの非言語的な表現であっても精神の動きと表現がなんらかの対応をする原理が働いているだろう。

ぼんやりしている状態とは何か、それは精神が動く様子をただ見ているという状態である。精神の動きに合わせて、何かをしたりその動きを増幅しようと集中した時はもう、ぼんやりとは言わず、その人は考えている。ぼんやりするか、考えるかは精神に対する自分の姿勢の違いなのである。

考えることは、ぼんやりしていない状態である。ぼんやりすることは、考えていない状態である。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!