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逃れられないもの

思いつくままに、思いつくものを書く。一見すると自由に書いているように思えるが、実は一番不自由な書き方であるとも言える。なぜなら、反省や改善の余地もなく、思いついたそのときの必然性のようなものに従って書いてしまうことであるからだ。

しかし、自由に書くことがいいことだとも単純には考えない。自由すぎても書けないからだ。「何を書いてもいい」と言われると困る。思いつきや、表現は制約をもとに作られる。

ホースから出る水の勢いは、ホースの口が狭ければ狭いほど増す。それと同じで、表現において、制約は多ければ多いほど鋭さを増す。しかし、それをうまく外に出していくのは難しくなる。

はじめは、口を緩めておいてとにかく水を出してみる。それから、指で調節してもっと制約を強めていくのがいいだろう。

前述の、思いつくままに書く、というやり方はどちらかというと、ホースを緩めずにとにかく書いてみるやり方と言えるだろう。自分で表現を選別しないで、表に出てくるものを受け入れる。それはそれで、意外な自分に出会える楽しさがある。

本当に思いつくまま書いているので、書き始める前に構成も文体も考えない。初めの一文が書けたらそれを元に次の文を書く。そしたら、またその文を元にどんどんつないでゆく。書く前には何も見えていない。文章に任せて、運ばれてゆく。

工夫のしがいが無いので、ある人にとっては退屈かもしれない。しかし、思い至ったらすぐに書くことにあたれるので、スピード感がある。書く前に何も必要としないので、ネタが切れることは無い。書けなくなることも多分無い。

そんなふうに書いていると、自分の中というよりかは、自分の外側に制約が存在することになる。自分では、こんなふうに書こうとかを指定しないので、できたものはそのまま受け入れるしかない。しかし、結局、形になっているのだから、なんらかの形を決定する要素が私の文章の中に入り込んでいるはずである。

それは、体の疲れ具合で、文章の長さが決まったり、言葉が引き起こす印象が文章の勢いを決めたり、無意識のうちに私が考えていることが影響をしていたりする。

それらは全て、自分の意思ではコントロールできない。勝手にそうなってしまうものである。逃れられないものである。書けば書くほど、逃れられないと知る。

結局のところ、自分はそうしたものに身を委ねるということしかしていないことになる。昨日の文章も、今日の文章も、そしてこれから書く文章も。程度の差はあれ、そうしたものから逃れることはできないだろう。

しかし、その先に何か美しいもの、意味があるものができると信じている節がある。どんな文章が書けるのか、一切知らないのに、なぜか書くことを信じている。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!