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「今、考えている」ということ

人は皆、考えている。しかし、考えることって何だろう、と考え始めるとなかなか答えが見つからない。なのに、私たちは考えなくてはいけない。ちょっと理不尽である。考えなしにやってると怒られる。考えたつもりでやっていても間違えることがある。だとすると、結構、真剣に考えることと向き合ってみたい気持ちになる。考える事はいい事なのだろうか。なぜ考えなくてはいけないのだろうか。

何のために考えるのか

人はどんな時に考えるか?

考えることが最大限に肯定される場面がある。それは頭を使ったパズルで戦っている時である。これは、考えることが自分がそのパズルで相手を打ち負かすことにつながる。ここでは、考える力は徒競走の時における走る力のようなものである。よく考えることができれば勝てる。

しかし、考えるという事は量の問題だろうか。単純にたくさん考えればそれでいいのだろうか。

一つの問題に長く時間をかければ問題は解けるか。そうとは限らない。考え方が間違っているといつまでも解けない問題もある。逆に、ポンと思いついて一瞬で解ける時もある。単純に努力を積み重ねればいいわけではない。

しかし、解けるまで考えなければずっと解けないままだ。長く問題に向き合い続けることには意味がある。途中で考えることをやめてしまえば、いつまでも解ける事はない。しかし、どれだけ時間がかかっても考え続けなくては答えは出ない。問題に睨み合っている時間というより、問題とともに過ごす時間といえばいいのか。机に向かっている時間だけではなく、ふとしたときにもアイデアが思い浮かび、問題が解けるという事はよくある。

ここまで考えてみると、長く考える事は意味がありそうだ。しかしそれは、考える事は量的ではない、ことを示している。どれだけ時間をかけようが、すぐに思いつこうが関係がない。ある問題がいとも簡単に解けてしまう人もいれば、それを何年も考えている人がいる。そのようなことがあるのは、やはり考えることの量は問題の解決に対して関係がないということを示している。

「頭の良さ」とは

「頭の良さ」という考えも少し変わってくる。クイズや、問題に早く答えることができる人には確かに感銘を受ける。しかし、それを漠然と「頭がいい」というのはあまり適切ではない。クイズや何かを閃くための特有の技能だと考えた方がいい。何か「脳力」というようなパラメータ化できるものがあるわけではなく、クイズ特有のテクニックなどに習熟している人と考える方が自然である。

誰にも何かについて考えている。数学者は数学について、お母さんは子供のことについて考えている。そうした面で数学者の方が、お母さんより頭がいいとは言い難い。それぞれ考えの性質が違うのである。

一つ反論が思い浮かぶ、「地頭」という考え方もあるのではないか。例えば、数を数えたり、ものを覚えたりする事はどんな考えることにも役立つことである。「地頭」がいい人は確かに頭がいいといえる。という意見だ。

そこで気になるのは、その個々の考える分野を限れば、やはり頭がいいとか悪いとか言うことができてしまうのではないか、ということだ。確かに数学者とお母さんの考えている事は違う。しかし、数学者の中にはいい数学者とまあまあな数学者がいるのではないか、といった疑問だ。「地頭」がいい悪い、という考えもこの類のケースにおいて議論されているように思う。

それでも、考えることを能力であるかのように扱うことには違和感がある。このような説明はどうだろうか、いい数学者とは「考えることに成功した人」であるという説明だ。つまり、いい数学者が数学のある問題を、他の数学者より早く解いたとしよう。その時、純粋に「考えること」だけをみると、両者とも考えているはずだ。しかし、考えた結果には差が出た。いい数学者は問題を解くのに成功し、他の数学者は解けなかった。かと言って、いい数学者の方が単純に、他の数学者よりも頭がいいと言い切れるのだろうか。他の数学者でも考え続ければいい数学者が解いた問題を解けるかもしれない。また、いい数学者が解けなかった問題を解けるかもしれない。

いい数学者は、早く考えることに成功しただけのことである。つまり、頭のいいとか悪いとかは「能力」の話をしているようで、実は「結果」の話をしているのだ。つまり、頭がいい人は、もともと頭がいいのではなく考えた結果、問題を解くことに成功したということだ。

そこに考えることを成功させる技術や、習熟はあったはずだが、「考えること」という純粋な行為だけをみると、能力は関係ない。「いい考え」と「悪い考え」はあっても、考える能力として量化するのはあまり適切ではない。どうしたらよく考えられるのか、とか、どうしたら問題をうまく解決できるのか、という議論では考えに優劣をつけることはできるかもしれない。しかしここでは、もっと純粋な「考えること」を取り上げて議論したいのである。

電卓は考えているのか

「考えること」の反対は、考えないこと。では全く考えなかったらどうなる?

少し想像がつかない。想像しようとしても、もうすでに考え始めてしまっている。考えない事はちょっと難しい。考えようとする事はそれに比べて簡単である。問題を探して、ちょっと考えてみようか。と思えばいいだけである。今この文章を読んでいるあなたも考えているはずだ。

考えないことを外側から見たらどうだろう。犬は考えているのか?カラスは考えているのか?ナメクジは?石は?

実はここでさっきの「頭の良さ」の議論が生かされる。「頭の良さ」は結果として考えることが成功したものが現れたものとしてみなせる。

カラスが、車が通る道路に木の実を落として、タイヤで木の実を割る。ような行動をとる映像を見たことがある。その時私たちは、カラスの「頭の良さ」を感じる。カラスがどうにか考えて「木の実を食べる」という問題を解くことに成功していると思うからだ。

石が重力に従って落ちる。石に「頭の良さ」は感じられるか。それはあまり感じられない。石が考えようが、考えていなかろうが重力には逆らえない。モノは考えない?

電卓が、足し算の答えを出すのはどうだろう。もっと進んでコンピューターならどうか。電卓は、考えているのだろうか。これは人によって答えが分かれそうな気がする。

まず、電卓は考えていないという立場。電卓は、決まり切った入力に、決まり切った答えを出すようにプログラムされているだけである。それは足し算の答えを言えているように見えても、石が重力に従って落ちているのと同じだ。カラスのような創意工夫はそこにはない。だから、電卓は考えていないというのが大筋だ。

創意工夫、どうやらこれが大切そうだ。つまり、カラスのように色々、やり方を試しつつ問題を解くといったような営みだ。創意工夫がなければ、どれだけ問題が高度であろうが、考えていない。だからコンピューターが人間にわからない問題を解いたとしても、コンピューターは考えていない。そのような感覚は確かにある。問題の答えだけを暗記して答えているだけの人を見ても、その人がよく考えている人だとは思わない。

しかし、電卓が考えているとする立場もありうる。その人はおそらく、「石でさえも考えている」というのではないか。物理法則や、数学の計算のルールもある種の知性のようなものである。それらは、時にある種の問題を解く。進化論などを例に挙げればいいだろう。誰が考えていなくても、ある環境に適応する生物を自然は作り出した。そう考えると、考えていないように見える動物の本能も、ある種の知性であるといえる。

少しとっぴに聞こえるかもしれないが、「電卓が考えている」説は、前の「頭の良さ」の議論の拡張である。結果として、こうなったのだから考えているはず。という論理だ。結果として、複雑な生物の本能や、環境に適応する生物を誕生させたのだから、自然は考えていると結果からさかのぼって主張している。結果として考えることが成功した時に「頭が良く」見える、と私は説明した。

私たちには、自然の意図や進化の方向性を見ることができない。それがあるかどうかには関わらず、自然がどのように創意工夫したのかという思考のプロセスを追うことができない。だから、そのようなものに対して、考えているのか否かを判定するためにはその「結果」を目にしていくしかない。

そして、逆にいえばその結果から、いかようにもその前提となる知性を逆算してしまうことができる。ということである。それは、後から作られた「考え」であって、現在行われている考えであるとは思えない。

その時、私たちは自分が考えているやりかたや問題へのアプローチを電卓や、自然という対象に押し付けている。だとすれば、電卓や自然が考えているように見えるのは、私たちが考えているからだ。

つまり、電卓が考えているように見えるものも、カラスの創意工夫も、私たちが考えていることにつながっている。

今、考えているということ

だから、私たちが「今、考えている」ということが問題の根本ということになる。

つまり、それは考えている私たちの頭の中にあるもやもやした状態のことである。今まさに考えてること。この頭のもやもやは何なのか?感覚的で捉え難い。

このもやもや、という状況についてどう考えればいいか。おそらく、もやもやしているのは「今、考えている」ということは考えた結果が、まだ見えていないからだろう。すなわち、問題が解けて初めて私たちは自分の考えが成功したか否かがわかる。これは、「頭の良い」という印象と同じく、考えた結果からさかのぼる形で考えているかどうかがわかることの議論で前述した。だから、考えた結果にまだ至っていない人は、もやもやした状態におかれる。

それにも関わらず、今、自分が考えているとわかるのは、おそらく経験ゆえの判断だろう。かつて自分が何かしら考えていた時の感覚を覚えていて、今、自分がその途中の状態であると把握しているということだ。

考えている時の、もやもやした状態がいいのか悪いのかよくわからない。答えが欲しければ、答えが見つかるまでずっともやもやしなくてはならない。しかし、無理してもやもやする必要はない。自分なりに、もやもやとの付き合い方を考えることが必要だと思われる。

単純にいうのならば、考えの結果が見えていないことがもやもやの原因である。だから早く結果に到り、もやもやから抜け出す、というのが一つのやり方だ。これは私が今までやってきたことなのだが、手を動かしながら考えるということである。つまり、考えた結果をあまり先延ばしせずに求めていくということである。

このやり方は最初の目標に早く到達する方法ではない。結果までの道をコマ切れにし、細かく考えの結果を検証しているだけである。ただ、考えるたびにもやもやが一瞬晴れる時がある。それが気持ち良くて続けている。まあ、もやもやの後にはまたもやもやがあるのだが。だから、もやもやをなくす方法というよりも、もやもやと付き合う方法といった方が良いだろう。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!