2020/12/04

とりあえず今日は、書き重ねることをはじめてから30日が経つ日のようだ。

最近書くことに関する自分の気持ちを、客観的にみられるようになった。その結果、ひたすら書くことが加速して、このままどこまで行けるのだろうと気になっている。自分の歩き方を発見した。それは、まだ歩き始めたばかりの赤ちゃんのような感じだけれども、この先に広い広い世界があるのだと感じられる。

書いたものが有機的に思えるようになった。書き捨てるのではなく、やはり何かを産んでいるのだ。書くことは、書いて考えている精神があればどこでも、どこからでも始めることができる。だから、書き終わった文章を見ていると、考えがまた進み始める。書き直すことや、削ること、整えることも多分今ならできる。

不思議なことだ。書き重ねる方法を始めたのは、文章を直すのがめんどくさかったからだ。しかし、それをずっと続けていると、文章の構造が見えるようになった。いや、文章の構造ではなくて、書くことの構造かもしれない。だから、過去の自分がどうやって、どんな気持ちで書いていたのかがよくわかってきた。その流れを読んで、書き直すことには違和感がない。それは新しい文章を書くことだし、退屈なものは何もない。今書いている文章を書くことと、変わりはない。

書くことは、泳ぐことと同じように、水にあたるものがないとできない。書くことにとって、言葉は水だ。だから、書くことから、純粋さを求めてすぎると言葉から離れすぎていってしまう。書けなくなってしまう。

頭に何も思い浮かべないで、言葉の手綱を手放してしまうと、書くことは散らばってしまう。言葉を追って、追いかけるといつの間にか文章の足跡ができる。文章を書いているのではなくて、書いている私にとっては言葉を追いかけていると言ったほうが正しい。

しかし、泳いでいるのではなくて水を掻き進んでいるとまでは言わない。書くことは、一つのまとまった動作だと思う。だから、指を動かしているのではなくて、言葉と動きを調和させている。自分の中で言葉が出てくるリズムと調和させて書く。パソコンの文字盤も、配置を覚えて動作に組み込まれるまで練習する。

書くことの間をどれだけとるか、書くことを迷うこと、滑らかに進むのではなく、

ひとつひとつ進もうとする文章もある。

泳がないで、沈んでいく泳ぎ方もあるように、書く言葉にも深さがある。

私は多分、水面をサーッと行くのが好きだ。ノートのページの細かいきめが水面に見える。どこまでも広がる白い白い海。そのひらけた景色を見るのが好きだ。

あるいは、書くことは歩くこと? 散歩すること?

ふらりと知らない場所に行く。いつでも引き返せるように道をしっかり見る。目的がない場合もある。

初めて散歩する町は、自分が生まれ育った町で、父や母に連れていってもらった場所にもう一度自分の足で行き直すことだった。懐かしさと、新鮮さが入り混じる不思議な気持ちだった。

書くことは、読んだものをもう一度思い出し、懐かしみ、新しく知ることなのかもしれない。

そして、書き続けることで、まだ書かれていない、いったことがない町にも自分だけで行くことができるかもしれない。

文章を書き重ねるのではなくて、今度は書き繋いで行くのかもしれない。

何かを追いかけて、

それは一つの線で、しかし、最短の線ではなく、曲がっている。しかし、その回り道をなかったことにすることはできない。回って、どこかにつながっていくその過程に全ての意味がある。なんだかそんな気がする。そんな気がするから、今書いていてもこわくない気がする。私が行ったあの道もこの道も、すべて私が書き繋いでいる文章を書くために必要だったものだ。これからも、自分の足で行くつもりだ。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!