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「自分」という言葉と自分という存在

自分だけが「自分」ではない。そのことに気がつくことで自分という言葉は磨かれる。言葉による自分探しをしてみよう。どうすれば、自分を捉えられるか。正確に語ることができるのか。

「自分」という言葉は曖昧である

まず、「自分」という言葉について考える。よく考えてみると、「自分」という言葉は、曖昧である。誰でも自分ということができるからだ。自分だけが「自分」ではない。

自分というものを言葉の側から考えてみたらいい。ここにポツンと書かれた「自分」という言葉は、誰が書くかによって意味が変わる。誰が読むかによっても、解釈が異なる。これだけでも、自分という言葉が曖昧で扱いづらいということがわかる。

自分などという言葉よりも、その人のすがたかたちの方がよっぽどその人を表している。むしろ、その他にその人を他人が理解する手がかりがないのである。「文は人なり」という言葉があるが、文章はその人以上に、その人自身である。

「自分」という言葉は、他者の側から使うべきである

だから、自分という言葉は受け取った側に解釈する権利がある。

これは、相手を指し示す時にも「自分がそうでしょ」などと「自分」という言葉を使う感覚である。それはすなわち、外側からみた自分のことである。自分語りではない。

そうした「自分」の方がよっぽと説得力がある。具体的な姿と結びついた自分であるからだ。意味が明確になり、伝わりやすい。「自分がそうでしょ」と言われた人は、ハッとさせられる。

自分があるということ

自分があるということは、このような自分の外側から自分を語る視点を確立することである。

外側から自分を語ることと、内側から自分を語ることは違う。

外側とは、複数の人と共有可能な視点である。また、具体的な姿かたちを記述することができる。そのように記述された「自分」は明確になる。

内側から「自分」と言ってしまうと、他の人と共有できない。言った本人と、受け取った人との間で意味の違いが生じてしまうのである。

この内側と、外側という例えは便宜上のものである。

例えば、自分で「自分」といいたい場合、物理的に外側に立つことは不可能だ。その時に、常識や知識、一般的な人間理解が客観的な視点をもたらす。そのようにして仮想的に、自分を見下ろして初めて他人と共有可能な「自分」が語れるようになる。

自分の内側の中に、自分の外側がある。「自分という言葉」と「自分という存在」はメビウスの輪の裏表のように区別しがたい。

大切なのは、「自分」とはこのように語られているものだ、と自覚することだと思う。私のすぐそばにあって当たり前な存在でも、客観的な視点を意識しなければ言葉として通用しない。それが言葉が他者と共有されるものである、ということの本質である。

自分の中にある客観的な視点が「自分」という言葉を明確にする。それを知ることは、自分を理解することへの第一歩である。当たり前だと思っている自分、という存在を、誰もに通じる「自分」という言葉で語ること。自分の内側は、じつは自分の外側につながっている。外に向けて語ろうとすればするほど、内面が明らかになる。



最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!