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自転車のカゴに空き缶。

ラジオの向こうに別の世界の人々。
こちらは、自分勝手なのんきな世界だった。

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今年は長雨で、梅雨が明けないまま秋になると思っていた。
なのに、8月になった途端暑い日差しに変わった。
そして、とうとう毎日が最高気温の天気になった。

もうベランダにスダレを出すつもりが無くなっていたのに、
結局、諦めて吊ることにした。

昨年の暮れに、
慌てて片付けたスダレは、
あちこち紐がほつれていて、
所々、葦が折れていた。

それを、ラジオの再放送を聞きながら
ベランダで修理した。

リスナーからのお便りが流れた。

「自転車でパン屋に行って、
買い物から出てきたら、
表に止めていた自転車のカゴに
空き缶が放り込まれていたんです。
せっかくお気に入りのパンを買って、
幸せだったのに、台無しにされました。」とのことであった。

「その怒り」が、黙々と作業をしていた私の手を止めた。
「この人は、果たして気の毒であったのだろうか?」と思った。

スダレがあまりに傷んでいたので、
落ち込んでいた私は、
生来の反抗心から、この人の怒りに同調できなかった。

「空き缶が放り込まれたくらいで、怒らなくても」と。

その上、「その人の気分」は日常のもやもやとした私の不満を
喉元に詰まらせた。

「折角、選ばれたのに、たとえ空き缶捨てのゴミ箱であろうと。     その自転車カゴは、確かに選ばれたじゃないか」と。

そう、食べて、寝て、起きたら出勤して、
夢遊病者のように働く毎日。
人から注目されることや、
選ばれることなど無い。
存在の無い、無視された私。

選ばれた事の無い者からすれば、
羨ましい気がするではないか。
たとえ、ゴミ捨て係だとしても。

「本当に、ゴミ捨て係でいいの?」と誰かの声が言った。

「タバコの吸い殻が刺さっていたりすると、
やっぱり、嫌でしょ。」とまた言った。

「リサイクル活動の一助になれて、
人から褒められたりするかもしれないから、
やっぱり羨ましい。」と私は言い返した。

「そうだ、もし、缶集めで生計を立てていたら、
ありがたいと感じても矛盾はないでしょ。」
と私は続けた。

そんな想像をしながら、
逡巡していたら、
首筋にジリジリと日差しが当たって、
痛くなってきた。

堪らなくなって、
部屋に入ってエアコンを付けた。

もう外で作業は出来ないと思った。

しかしこのままスダレを吊らなければ、
南向きのこの部屋も
安全では無くなってしまう。

外で使っていたスダレを
部屋に持ち込むことに
躊躇があったが、
食堂のテーブルで
作業することにした。

涼しい部屋で、テレビを付けて修理を続けた。

ダメになったスダレから
まだ使えそうな葦を取り出して、
マシな方のスダレの
壊れた所と交換した。

交換するには、
修理の必要な部分まで
編み紐を解かねばならず、
中々、骨の折れる作業である。

黙々と、同じ動作を繰り返した。
数時間の格闘の後、
三枚の古スダレが、
一枚の長簾になった。

手元を見ながらの作業だったので、
推理ドラマのトリックを見逃した。

こうゆう作業の時は、
テレビよりラジオが向いていると了解した。

スダレをバラバラにしていた時は、
買えば400円程の物に
時間を掛けた挙句、
使い物になるかどうかもわからない。
迷いながらの作業だった。

だから完成したら、嬉しかった。

ところで件の「自転車に空き缶の人」は、
空き缶をどうされたのだろうか。

家まで持って帰ったのだろうか。
否、それでは当たり前過ぎる。

そうだ、「えーい、腹立たしい」と、
一瞬でも、
他の自転車カゴに
入れようと思わなかったのだろうか。

そうなれば、怒りの連鎖である。

もしかしたら、
次に空き缶をもらった人が、
スダレを修理した後であれば、
「自分を選ばれし者」と思い
嬉しがったかもしれない。

人の気持ちとは、結局、状況による。

そういえば、レヴィストロースも
「人の意見は社会構造で決まる」と言っていたような。
「個人は言わされているだけだ」とかのようなことだったと思う。

誰しも、気持ちを言う場が欲しい。
聞いてくれる相手が無ければ、
ラジオで良いのかも。

ただ、聞いて欲しいだけなのだ。
何かを決めたいわけじゃない。

「ラジオがなければ、
壊れたスダレを直せば良いのかもしれない。
随分、気持ちが晴れるのだから。」と
納得して、食堂に掃除機を掛けた。

2020年08月

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