短編小説「満天の星」

 ハレオさんは汗に濡れた額を手の甲で拭った。そして窯の奥へと目を凝らす。何かが動いたと感じたからだ。しかし、そこには何もなく、満天の星々とただ海風にあおられたサトウキビ畑が静かに揺れているだけだった。

「な? いま何か見えなかったか?」

 ハレオさんは六歳になるワタルに声をかけた。

 なんも、とだけ言ってワタルは窯の口から噴き出すガラスの粉を目で追っていた。ハレオさんは夜十時を過ぎると、工房に戻り、ガラスを窯に継ぎ足しに行く。

ワタルはハレオさんにくっついて夜のガラス工房に行くことが好きだった。目を閉じていると、サトウキビを揺らす風、そして潮騒が体を包み、ふわっと何かに持ち上げられるような感じがする。赤々と燃えた窯は直視できないほど眩しい。その明かりに照らされてヒビの入った沢山の一輪挿しが輝きを放つ。それをワタルは、何にも代えがたい時間だと感じていた。小さな頃からそうだったとワタルは信じているが、ハレオさんが言うには、そんなことはない、という。

「ワタルゥは臆病者で、暗いところは特に嫌いだったよ」

 と笑われ、馬鹿にされたようでむっとした。

 

 ハレオさんは海の向こうからやってきた。ハレオさんが十五歳のときだ。ハレオさんは沖縄に焦がれていたんだ、と言う。中学を卒業したらすぐ沖縄に行こうと決めていた。

「呼ばれたんかねえ。俺はただただ沖縄に行きたかった。そこに意味はないよ」

 と言う。ハレオさんはどんなに貧乏をしても自分でご飯を作る器用さはなかったから、工房の近くにある食堂に通っていた。「おいしーさー」というちょっととぼけた名前の食堂だった。通りは何度も塗り替えられたが、「おいしーさー」だけはなくならなかった。

「その秘密は、な」

 とハレオさんはいつも得意げに言う。

「美人な母さんがいたからだ」

 そう言われると、ワタルもくすぐったい気持ちになる。

「美人、いうのはなぁ、見た目だけじゃない。心が美人だったんだ」

 ワタルのオバァが「おいしーさー」を切り盛りしている時代の話だ。ハレオさんが通い始めた頃、オバァがハレオさんに訊ねた。

「最近よく来るけど、どこからね?」

 ハレオさんは正直に、ガラス工房からだと答えた。

「あの、野ざらしのね?」

 とオバァはハレオさんに顔を近づけた。

「物騒に。あんなところから通っているの?」

 まだ若かったハレオさんは、「沖縄のしきたり」を知らなかった。ハレオさんが言う「沖縄のしきたり」とは、人に心配をかけないことだ。ハレオさんはそれを知らず、調子に乗ってそこに寝泊まりしていることも話した。

「あそこは出るよ? それも知らない?」

 そう言われてハレオさんはきょとんとしていた。

「ことば聞くとヤマトの人みたいだけれど」

 といぶかしがるオバァに、ハレオさんは東京からです、とこれまた得意げに言った。「家族は?」「東京にいます」「あなた一人で?」「そうです」――そんなやり取りをしているうちにオバァの目が潤んできた。

「難儀だったねえ」

 オバァは大きな瞳から涙をこぼした。そして無言で厨房に戻ると、ハレオさんが注文していた生姜焼き定食を無心で作り出した。「おいしーさー」の生姜焼きは他の店とはだいぶ違う。ぺらっぺらの肉ではなく、ガッツリ分厚い豚肉を時間をかけてしっかりと焼く。少年だったハレオさんの食欲を満たすには十分なボリュームだ。いい香りが胸にしみてくる。そしてオバァは、山盛りにご飯を盛った茶碗とともに、いつもより多くの肉が盛られた定食を運んできた。

「まずは食べることからだよ」

 オバァはそう言うとお店の黒電話で何軒か電話したようだ。ハレオさんが食べ終える頃には、閉店間際の店であるにもかかわらず、たくさんの青年たちがハレオさんを囲み、会話を楽しんでいた。

「もう寂しくない。いちゃりばちょーでー。みんな兄弟だと思いなさい」

 オバァはすごかった、とハレオさんは続けた。

「その日、オバァは見も知らないお父さんに、お店の鍵を貸す。座敷に布団を持ってくるからここで寝泊まりしなさいって言ったんだよ」

とハレオさんは目を細めてワタルに言って聞かせた。

夜の工房ではほとんどと言っていいくらい、ハレオさんはいつもこの話をした。しかし何度聞いてもこの話を聞くとワタルは綿あめを頬張っているときのような幸せな気分になる。

 

四月になってワタルは一年生になった。ワタルは小学校から距離のある保育園に通っていたので、同じ一年生のなかにはほとんど友だちがいなかった。同じ保育園からの友だちには、アメリカ人のお父さんがいるクレアと、ひときわ背の低いユズキがいた。入学式が終わった廊下で三人のお母さんたちはあれこれ話し込んでいた。一年生は三クラスあったが、みなクラスはバラバラで、ちょっと大人びて見えるクレアでさえ、不安を感じているようだった。三人が中庭で遊んでいると上級生たちが窓から顔をのぞかせて微笑んでいた。「いまが一番人生で楽しくて輝いているときなのよ」とワタルのお母さんは呟いた。ユズキのお母さんはクレアを呼んだ。

「くーちゃん。ユズキのこと守ってね」

 子どもたちが不安であるように、お母さんたちも不安を感じていたようだ。三人で遊んでいた子どもたちは何かを話し合うと、示し合わせたように、お母さんたちに言った。

「ユズキんちのヤギと遊びたい」

 ユズキのお父さんは小さな動物たちのいるテーマパークで働いていた。そこから、ユズキが生まれた年につがいでヤギをお祝いにもらった。一人っ子のユズキにとって、ヤギたちはともに育ってきた兄弟だと言えた。お母さんたちは一瞬顔を見合わせ、表情を崩して、どうぞどうぞ、と言った。その沈黙の間が、ワタルには何を意味するのか、食堂の子なだけに察していた。しかし、黙っていた。

 

 ヤギたちには名前はない。ユズキは何度も名前を付けようとしたが、そのたびにお父さんからつけるな、ときつく言われていたようだ。

「だから、アイツ、コイツなんだ」

 とユズキは言った。オスはアイツ、メスはコイツ。俺、お父さんになったら、子どもに「アイツ、コイツって名前つけるよ」

 ユズキが言うと、

「おかしいよ」

 とクレアは笑った。しかしユズキは落ち着いたなまなざしで、

「俺は真剣」

 と呟いた。

「絶対兄弟は二人。アイツ、コイツ」

「変だって」

 クレアは食い下がるが、間を割ってワタルがまぁまぁ、と二人をなだめる。そんなやり取りをしているのを聞いてか聞かなかったかわからないが、アイツとコイツがメヘェー、と何とも間の抜けた鳴き声を互いに交わす。

アイツとコイツは恵まれたヤギで、みんなが「草刈りのオジィ」と呼んでいる色褪せた迷彩服を着たおじいさんが、毎日どっさりと草をアイツとコイツのもとに運んできていた。そして、これも草刈りのオジィの案だが、スティック状にカットしたニンジンを柵の近くに備え、「餌やり体験百円」と箱を作った。無人の「餌やり体験」だが、百円を入れると、鈴がチーンと鳴る。農道に面したヤギ小屋だったが、意外と観光客にうけて、草刈りのオジィがあげる草とニンジンでアイツとコイツの腹はいつも満たされていた。そしてニンジンで得たお駄賃が草刈りのオジィのものになり、たまにユズキにそのお金でパーラーで買ったかき氷をくれた。

「オジィすごいね」

 とワタルが感心すると、

「ほんと、見習う」

 とユズキは首を傾げて腕を組んだ。

「だから、これはオジィのニンジンだからあげちゃだめだよ」

 ユズキはそう言うと、道端のタンポポや雑草を摘みはじめた。

「え? タンポポ食べるの?」

 とクレアは不服そうに言う。なんか可哀そう、とクレアが言うと、

「どっちが?」

 とワタルは訊ねた。

「タンポポ」

 とクレアは短く答える。

「せっかく咲いているのに? 花は飾るものでしょう?」

 とクレアは言う。

「でも、俺があげると食べるもん」

 ユズキはおかまいなしだ。ちょっと雲行きがおかしくなったが、ユズキが「小屋のなか入る?」と提案した頃には、みな大はしゃぎで、アイツとコイツと戯れた。ユズキが「兄弟だ」という通り、巨体になってもアイツとコイツは子ヤギのように無邪気にユズキたちと相撲をとったり、撫であったりしていた。

 

 それから間もなくのことだった。コイツのおなかが大きかったのは十分なエサのおかげだけではなく、子ヤギを宿しているということを知った。ユズキは学校の休み時間になると、それをワタルとクレアに興奮気味に伝えた。

「ユズキ、生まれそうになったら教えてね。女として、わたし知っておきたい」

 とクレアは前のめりだ。「女として」というクレアの言い方がいかにも大人びていて、ワタルにはクレアが自分たちよりもずっと年上に思えた。下校途中でワタルは工房に寄り、ハレオさんにそのことを伝えた。

「出産かぁ。ワタルが生まれたときは泣いたよ。ただただ泣いたさ」

ハレオさんは笑顔で言った。ハレオさんとワタルのお母さんは若いころに結婚していたが、なかなか子どもに恵まれなかった。ワタルが生まれたときは、お母さんは四十一歳だったという。

「出産は大仕事だよ。お母さんもワタルもよく頑張った」

 とハレオさんは興奮して言った。そしてガラスの窯はよく女の人に例えられるという話もしてくれた。何かが生まれるときというのは、いつだって奇跡だ、とハレオさんは継いだ。

「初めてワタルを抱いたときの感触は今でも覚えているよ」

 とハレオさんは言う。

「小さかった。軽いし。いまこの両手を離したら、死んじゃうんだろうなあとぼんやり考えた。そう感じたとき、お父さんはお父さんになった」

 とも話してくれた。

「それが今やいっぱしの一年生だ。時間が経つのは早いもんだ」

 ハレオさんは吹き竿の先にガラスをとると小さくガラスを吹いた。ワタルはガラス職人であるハレオさんが好きだった。ハレオさんの作るガラスは何かしら沖縄の風景を切り取ったような色あいをしている。たとえば、海に潜ったときに見える何色にも輝く海面だとか、神々しく輝く夕日だとか、生命力に満ちたガジュマルだとか、他では見たこともないような琉球ガラスだった。ハレオさんが言うには全部、沖縄への恩返しだという。でもな、とハレオさんは言う。

「ワタルにはガラス職人になってほしくない。ワタルにはいっぱい外の世界を見てほしい」

 それを聞くたびにワタルの表情は曇った。ワタルはハレオさんの仕事をしている姿を見ることが好きだった。何かを生み出す。それが形になる。そして人に喜ばれるということは、ガラス職人以外にないと思ったからだ。

 

 そしてその日が来た。ワタルがお母さんの食堂で夕食をとっているときだった。

「生まれる。生まれるよ!」

 とユズキは電話越しに興奮した声で、早く来て! と叫んでいる。ワタルは自転車を立ちこぎで漕いで、ヤギ小屋へ向かった。クレアと草刈りのオジィも来ていた。コイツは横になった状態で断続的に大きな鳴き声で、メヘェと鳴いている。

「苦しいのかな?」

 クレアは不安げに草刈りのオジィに訊ねた。

「出産で楽なものはないよ」

 と草刈りのオジィはコイツの腹をさすりながら答えた。

「これで死んでしまうことはないよね?」

ユズキは今にも泣きだしそうだ。

「大丈夫。こんな日のために、たらふく草とニンジンを食べさせてきた」

 と草刈りのオジィはユズキの背をさすりながらやさしく言う。コイツとユズキは同時にオジィにさすられて、まさしく兄弟のように映った。クレアは両手を組み、額につけて祈りをささげていた。体をよじってコイツは一段と大きな声で鳴いた。そのときだった。コイツのお尻から、子ヤギの脚が見えた。子どもたちは前のめりになってその様子を見つめる。

「大丈夫。大丈夫だ」

 草刈りのオジィはコイツに言い聞かせた。すると子ヤギの頭が出てきた。しかし、またそこからが大変だった。コイツは小刻みに鳴くが、しばらく何も変わらなかった。草刈りのオジィは、ユズキを見つめて言った。

「ユズキ、やれ」

 なにを? とユズキはきょとんとしていたが、オジィは「脚を引っ張るんだよ」と身振り手振りでユズキに教えた。

「お前の子だ」

 とかたまっているユズキに草刈りのオジィはユズキの手をとってコイツのお尻から顔を出している子ヤギの脚を持たせた。おそるおそるユズキの手が子ヤギの脚に触れる。ぬめっとした。ユズキはオジィに手を添えられて、子ヤギの脚を引いた。ずずっと子ヤギが全身を表し、乾草の上に投げ出された。子ヤギは小さく鳴き、よろよろと立ち上がる。草刈りのオジィがコイツの懐に子ヤギを寄せた。時間にしたらほんの数秒の出来事だったはずだ。しかし、そのすべてがスローモーションで流れているかのようだった。子ヤギはもう一頭出てきた。オジィはクレアの方に振り向く。クレアは黙って頷いた。こうしてヤギ小屋はにぎやかになり、草刈りのオジィはそれまで以上にニンジンを用意するようになり、ユズキはそれまで以上にかき氷をご馳走になった。

 

雨の日が多くなった。梅雨だ。ワタルとクレアとユズキはそれぞれのクラスで友だちも増え、三人で遊ぶことは減っていった。小学校が始まってからワタルはハレオさんの夜の作業についていくこともなくなっていた。もう、その時間になると眠くて仕方がない。ハレオさんの吹くガラスはとても人気があり、作っても作っても間に合わないほどだった。

「体あっての仕事だからねえ。お父さんがんばりすぎじゃないかしら」

 とワタルのお母さんは「おいしーさー」のテーブル越しに誰に言うともなしに呟いた。ワタルは学校が終わると「おいしーさー」に帰ってくる。閉店の九時まで宿題をやったりテレビを観たりしていた。

そんなある日の夕方だった。ユズキから電話がかかってきた。

「コイツが、コイツが……」

 そう言ったきり、次の句が出てこない。何か大変なことが起きていることだけはワタルにも理解できた。

「草刈りのオジィは?」

「いる」

 ワタルは「おいしーさー」を飛び出し、ヤギ小屋へ向かった。

 三歳くらいの女の子が顔を両手で押さえて泣きじゃくっていた。その足もとには、横たわるコイツが痙攣を起こしている。

「すみません。本当にすみません」

 その子の両親は草刈りのオジィがヤギの持ち主だと勘違いして平謝りに謝っていた。草刈りのオジィは毛布をコイツにかけ、一生懸命体をさすっている。

「どうしたの?」

 とワタルはユズキに訊ねた。ユズキはこぶしを握ってずっと下を向いたまま黙っていた。

「サーターアンダギーを食べさせたのです」

 と女の子のお母さんはユズキの代わりに答えた。イントネーションで、どこかよその県から来た観光客だとわかった。

「ごちそうだよって」

「ヤギに油を食べさせちゃあならん」

 草刈りのオジィは呟いた。

「ユズキ、ヤギは死ぬ。苦しんで死ぬか、一発で仕留めるか、もうこれしかない」

「オジィはどう思う?」

「仕留める。そして……食う」

 ユズキはそれまでこらえていた涙を流した。と同時にカタブイがしてきた。雨の中、ユズキはコイツの体温や息遣いを全部確かめるようにしがみついてずっと離れなかった。それに応えるようにコイツは弱弱しく鳴いていたが、ときどき何かを見つけたかのようにバタバタっと脚を跳ねらせた。

「わかった」

 とユズキはオジィに言った。

「ユズキは家に帰れ。ワタルはお母さんにカツオ出汁をとっておくように伝えろ。お嬢ちゃん、わしらは食べるためにヤギを飼っている。もう泣かないで。泣かないでいいからな」

 みんなが去った後、オジィは鎌でコイツの首を刈った。

 

 ワタルはあの日のことを思い出した。

「な? いま何か見えなかったか?」

 ハレオさんが夜の工房でワタルに訊ねたことだ。ワタルには見えなかった。コイツが何かを見たかのように脚をじたばたさせていたときと同じように。しかし、そこには何かがいたのかもしれない。

 

山羊汁あります――。「おいしーさー」の店先に急ごしらえの看板が立てられた。

「何のお祝い?」

 村の人々の口から口に伝わり、瞬く間に「おいしーさー」は待ち時間ができるほどお客さんでにぎわった。お祝い、というより、お葬式だよな、と家族で呼ばれたユズキにワタルはお椀を渡して小声で言った。ユズキは押し黙ったままだ。そしてようやく口を開いた。

「いや、生きているよ」

 ユズキは泣きはらした目をじっと見開いて親指で自分の胸を指した。

「じゃあ、ぼくのなかにも生きている」

 とワタルはユズキの瞳をみつめて答えた。

「コイツ食った人のなかでコイツは生きている」

 村の家々に明かりがひとつ、ひとつと灯りはじめた。それは満天の星々へと広がっていく。それは「コイツの命」だ。ワタルはハレオさんのいる夜の工房へ走っていく。あの日見たものが何だったのかを伝えに――。

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