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キース•ヘリング展。少なくとも2000年前から、その仕事で食べていく事と、成功することの切り分けはある。

札幌芸術の森で開催中の、「キース•ヘリング展」に行ってきた。弟が誘ってくれた。

毎度、「知った気になっていてはイカンな」と。ポップアートを代表するアーティストだけれど、現物を見ないまま、作品をわかった気になってはいけないと、展覧会に行くといつも思う。

ヘリングは、美術の専門教育機関に入学するも、すぐに退学している。その理由は

自分のやりたいこととは、芸術家として食べていく方法を獲得することではなくて、芸術家として成功することだと気がついたかららしい。

彼は後者を選んだのだ。成功にお金がついてきた形になる。

そのキャプションを書いたのはキュレーターの方だけど…。生きる糧を得る事と、自分にとっての成功の形をまず切り分けるっていう発想を言語化してくれてありがたいと思った。

天職によって生きる糧を得ることを前提としない。夢追い人の胸に一度はよぎる宿命のテーマかもしれないが、

これを体現している人が少なくとも2000年前からいることをご紹介したい。

新約聖書 全27巻中の、書簡(手紙)集の大半約13巻を書いたパウロさんである。彼の活動記録は、同じく新約聖書内の歴史書「使徒行伝」にもまとめられている。書簡とは、パウロが当時できたての各地の諸教会に書き送ったもので、時間と神の試練に耐え抜いたものが、聖書内にまとめられている。

彼の功績は、人類初の組織神学の書といわれる、「ローマ人への手紙」を完成させたところでもうかがえる。

ついでに、「目から鱗が落ちる」も彼の体験から来ている(新約聖書 使徒行伝9章から。初代教会が中東からローマ世界にいかに広がっていったかを記録した書)。いち日本人でも知らず知らずにパウロさんの功績に預かっている。とか言ってしまいたい。

「ローマ人への手紙」に戻ると。約2000年前の書物だけれど、

「人のものを盗むことが、悪いことだと教わらなかったら、人間て、それが罪だと知ることはないよね?」みたいな洞察を交えながら、神の愛と、神の裁きという、一見相反する要素がいかに調和できるのかを語り尽くしている。

このパウロさんだけれども、幾度となく迫害・投獄され、最期は当時のローマ政権によって処刑されている。とはいえ、聖書を新旧約あわせて4000年読み継がれる書物に完成させるために、残した偉業は消えない。間違いなく成功者である。

しかし、彼の稼業は幕屋職人ーベドウィンの移動式住居の職人ーであり、このことから「テントメーカー」、生きる糧を本業で得ながら、伝道・奉仕活動を行う人、の言葉が生まれてもいる。

幕屋職人としての彼の功績は…多分聖書以外の伝承には残っていると思うけれど、少なくとも聖書の中では言及されてない。彼という人のことだから、いい仕事をするけど、特にイノベーティブでもない、数ある優秀な職人のうちの1人だったのだろう。聖書の中では火を吹くほどの激しさで手紙を書き飛ばし、迫害者たちに物おじせず相対する、触れたらヤケドしそうなパウロさんが、幕屋のクライアントには従順に、黙々と作業をこなしてたのかなとか思うと微笑ましい。

そして、わたしだけど、

もちろんヘリングやパウロさんと同じ文章内に自分を引き合いに出すのもおこがましいんだけど。まして「幕屋職人」とか肩書きがはっきりするような立場ですらないんですけど。

私も、今のところ、本業であるIT企業のいちOLであることになんの不満もなく、お金、経験共に、本業で得ることがあるから、本業とは、テーマからしてほぼなんの繋がりもない、信仰的なテーマで、誰も届かないレベルの、あえて届きたいとも思われないくらいのニッチなマンガを描けていると思っている。

自分の作品を洗練させたいとは思っているけど、誰が読んでも「なるほどー」と思ってくれるような、聖書豆知識が増えてなんか得した気分にだけなる、という方向性は大胆に避けたい。聖書のこと、聖書のことばを知って欲しい。でも、それを通して、読む人が「神様のことがもう少しだけでも知れるものなら知りたい、いっそ、出会えるものなら出会いたい」と思ってくれなければ、意味がない。

ただ、聖書を歴史背景と照らし合わせて理解すると、キース・ヘリングのようなポップアートを鑑賞する際にも威力を発揮する。

例えば、この展覧会では、ヘリング:絵、ウィリアム・バロウズ:詩 で共作の『黙示録』が展示されている。宗教絵画をモチーフにした絵画作品と、バロウズ特有の夢遊病的な内容の詩が並んでいて、ここから『そもそもの黙示録も、支離滅裂で奇怪な内容の本』っていうイメージを持ってもおかしくないと思う。しかし、そもそもの『ヨハネの黙示録(新約聖書)』は、旧約聖書時代、各預言者にばらばらに啓示されていた終末預言を、時系列順に並べ直し、聖書全体の啓示を締め括った結びの書であるという、かなりはっきりした目的と意味を持って書かれている。

西洋絵画を入り口にして宗教観を理解すると、解釈にブレができることも、聖書の歴史背景を理解することで、西洋・古代中東世界の歴史観の地盤の上に、美術がどのように変遷を辿ったのか、あるいは社会的、政治的に利用されてきたのか整理することができる。少なくとも従来の美術教育だけでは補いきれなかった、新しい解釈の視点が得られることは確かである。

成功の話に戻ると、私は今与えられているものに満足して、安定した心で作りたいものに邁進している。この思いに到達してる時点でもうそこそこ成功しちゃってるかな?とか思っている😦

信仰者の私として語るのならば、その人生を切り開いて、いまなお先頭で戦っているのは、私ではなくて私の主なのだ。

だから、私自身は、仕事がある、という小さな成功と、描きたいものが描けている、という小さな達成感が、お互い侵食しあって自滅の道を辿らないように、ぬかりなく交通整理してるヒト、みたいな役割を忘れないでいたい。結果として、何十年かかったとしても、私が見るべきものは全て見られると信じている。

私は「思い」が無いと全く描けなくなるので、自分に鞭打ってまで捻り出して描きたいものは何もない。まだまだ描きたいという、この「思い」だけは消えてほしく無い。

創作を志す皆様にも、日々葛藤はあるかと存じますが、私も頑張ります。お互いエッジ目指していきましょう✌️


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