夜市

夜市 

映画を見ていた。くたびれた男が黄色っぽい背景の中でぎくしゃくと歩く。動く。「タクシードライバー」。字幕サブタイトルはついていない。フィリピンの田舎町の片隅に、隠れるようにしてある映画館シネマ。英語なんてほとんどわからなかった19歳の僕は(信じがたいことに!)ロバート・デ・ニーロも知らなかったのだった。

「どうだった?」

隣に座っていた男が言った。フィリピンなまりのきつい英語だった。

「トレーニングするところが良かった」

僕は言った。

「ジョーカーよりはマシだよな。あいつは体を鍛えない」

男はそういって笑った。

僕と男は週末になるといつもこの小さな映画館に集まった。彼はいつもくしゃくしゃのエンゼルスの帽子をかぶっていた。彼は映画をよく見るが、内容はほとんど覚えていないという。

「ここに来ることが重要なんだ」



出会ってすぐのころ、男は陽気に言った。

「お前のアップルアイフォンを盗んでよかったよ」

男はスリだった。観光客専門の。彼にとって、先進国から来た警戒心のない連中は良いカモらしい。例にもれず僕もそのうちの一人だった。

「お前が追いかけてきたのはビビった。ヤキが回ったな」
彼は夜市ナイト・マーケットの喧騒に紛れて仕事をする。太ももを撫でられる感触が少しでもあればおしまいだ。と彼は言った。

「なけなしの金で買ったものだから」と僕。

「おれたちは農家みたいなもんだ」男は言った。「夜になると決まって農場マーケットにあつまってリンゴアイフォンを収穫する」

男はエンゼルスの帽子の縁をいじった。Aの刺繍が薄汚れている。

「聞いていて気持ちのいいもんじゃないね」

観光客としては、と付け加える。 

「娘を私立に入れたいんだ。頭のいい子だから」

そのためには何でもするさ、と男はまた帽子をいじりながら言った。

そうして、週末になると僕はいつも男と映画を見た。たいていはアメリカの映画だ。毎週、男が先に席に座っていて、その日の作品を教えてくれる。ジョーズ。スタンド・バイ・ミー。フォレストガンプ。

「あの国に行きたい」

ある日彼はそう言った。

「日本も良い国だけどな。俺はあの国で夢を見たいんだ。娘もつれて」

男の瞳孔にはスクリーンの光が映っていた。彼はじっと画面を見つめている。

「きっと行けるよ」

ある日、映画館に行くと男の姿がなかった。もう映画は始まっている。僕は座った。「2001年宇宙の旅」

映画館を出るとすでに日は沈んでいた。夜市には黒猫のように大きな拳銃を腰に下げた警官がうろついていた。パトロールの赤青二色のライトが青ざめた影を作っている。熱っぽくぼやけた街灯の明かりの下では、片手を差し出した老人が、じっと黙ったまま、行きかう人に向けて物乞いをしている。

次の週も、その次の週も彼はいなかった。
映画を観終わり、街を歩いていると、彼はまぼろしだったのではないかと思えた。
この雑然とした街を飛び立ち、はるか海を越えたアメリカにたどり着いた彼と娘を、僕は想像した。彼は大きなキャリーケースをひいて清潔な空港を歩く。あの古ぼけたニューエラのキャップが心なしか上を向いている。彼と手をつないだ娘は片手にアイスクリームを持ち、バービーのバックパックをその小さな背中に背負っている。

僕は寮に戻り、コップに水を注いだ。それを深呼吸するように飲み干した。それから僕はみじかい詩を書き、少しだけ眠った。

それからさらにひと月ばかり経ち、ルソン島には雨期が来ていた。連日の豪雨はゴミや悪臭を生み出し、次の雨がそれを洗った。水の粒子が目に見えるような湿気だった。勾配のはげしいこの街では雨が小さな川となり、子供用のちいさなサンダルが流れてくることもあった。雨に煙る街の向こうから、飛行機が空気を裂く音が聞こえる。

「知ってるか?」韓国人のルームメイトが言った。「500ペソで女が抱けるらしいぜ」
「すごいね」

くしゃくしゃのエンゼルスの帽子。浅黒い笑み。娘の写真。

「飯は安いしタクシーはすぐ止まるし愛想は良いし、いい街だよな」

観光客にとっては、と僕は日本語でつぶやいた。

僕はそれから映画を見に行くのをやめ、街をすみずみまで歩いた。タクシーもトゥクトゥクも使わなかった。軽快なバイクが横を通り過ぎる。水気を含んだ重い空気が左右にゆれる。
迷路のように入り組んだ商店街を抜け、豆電球に照らされた八百屋の軒先で、林檎がしずかに光るのを見た。僕の足は夜市へと向いていた。
夜市にはきょうも人が集まっていた。肩に他人の息がかかり、前後の足に自分の足がぶつかる。僕はスマホをポケットに入れたまま群衆の中を歩いた。

一瞬、太ももに誰かの手が触れ、反射的にその腕をつかむ。もちろん彼ではない。腕の持ち主は乱暴に腕を振り払い去っていく。人の流れが乱れ、視線があつまり、次の瞬間には糸がほどけるように、群衆はなめらかに動きだす。
途中の店で帽子を買った。ニューエラのコピー。金を支払い、ふたたび歩き出すといつのまにか僕のスマホはポケットから消えていた。

彼はいない。

僕は夜市を抜け、街の空白にいた。キャップをかぶり、Aの刺繍を触った。どこまでも高く、遠い所へ往く飛行機が見えた気がした。





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