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ウィル・スミスはなぜ許されないのか?

アメリカでスタンドアップコメディアンは、「聖域」を守るという役割を担っている。その聖域とは「言論の自由」だ。

アメリカにももちろん、言っていいことと悪いことという価値観はある。特に、社会的責任が重い人の言動には、大きな責任が伴う。従って、彼らの舌禍は大きな炎上へとつながり、少なからず責任を取らされることになるだろう。

しかし、スタンドアップコメディアンはその例外なのである。スタンドアップコメディアンは、アメリカ社会唯一の例外として「何を言ってもいい」という特権が認められている。たとえそれが差別的な言辞であっても、だ。日本人は、そこのところが分かりにくいと思う。

なぜなら、アメリカの社会は日本以上に実は価値観の自由度がない。価値観が固着しがちで、伝統的な常識というものに、日本以上に縛られやすいところがあるのだ。

だから、それを意図的・定期的に解体していく必要がある。そして、その役割を一手に担うのがスタンドアップコメディアンなのである。スタンドアップコメディアンには、常識の攪拌が求められている。その代償として、彼らには「何を言ってもいい(たとえ差別的な言辞であっても)」という特権が与えられている。

そうした構造から、スタンドアップコメディアンには「言論の自由の最後の砦」という役割も担わされている。言論の自由は、実は自由の中でも際だって脆い。なぜかというと、言論の自由そのものが、誰かの自由を阻害することがあるからだ。例えば、差別的な言辞は、分かりやすく被差別者の自由を侵犯する。

だから、「言論の自由」はともすると萎縮する。すぐに「その言動は私の自由を阻害する!」と糾弾される危険性があるため、多くの人が言論の自由を守れない。反撃を恐れて忖度してしまう。

そしてアメリカ社会は、その忖度そのものを恐れている。なぜなら、忖度の先に待っているのは、アメリカ社会が最も嫌う全体主義だからだ。

そのため、アメリカ社会は例外的に、「何を言ってもいい」という聖職を作り、その人たちに「言論の自由を守るガーディアン」として役割を求めている。

そのガーディアンこそが、スタンドアップコメディアンというわけだ。その代わりに、スタンドアップコメディアンには必ず徒手空拳でいるという条件が課されている。組織に属しても、誰かと連帯してもいけない。必ず個人で、誰にも守られない危険地帯から、立ったままで言葉を発しなければならない。

この条件さえ守れれば、スタンドアップコメディアンは何を言っても許されるのだ。こうした「例外的に何を言っても許される存在」は、アメリカに限らずあらゆる社会に必要である。なぜなら、タブーの先に必然的に待っているのは全体主義による社会の硬直で、さらにその先には社会そのものの崩壊が待っているからだ。これは歴史が何度となく証明している。

だから、中世の道化師や日本の幇間など、社会はしばしば何を言っても許される存在を意図的に設置した。「王様は裸だ」と言ってくれる人がいないと、困るのは社会の方なのである。

そして、現代アメリカではスタンドアップコメディアンこそ、その役割を担っている。彼らは、炭坑のカナリアのようなものだ。言論の自由が阻害されたら、真っ先に殺されてしまう。しかし、スタンドアップコメディアンは、殺されることによって、人々に「危険が迫っている」ということを伝える役割をも担っている。そういう命がけの仕事なのだ。

それを全うするために、彼らは「何を言ってもいい」という特権が与えられているのである。そして、その特権を侵したのがウィル・スミスだ。しかも、暴力という最低の形で侵した。

だから、彼は許されない。彼が殴ったのは、単なるアカデミー賞の司会者ではない。言論の自由を守るガーディアンを殴った。すなわち、言論の自由を殴ったのと同じだ。言論の自由の封印を試み、全体主義を希求したのと同じなのだ。

だから、ウィル・スミスは危険視されている。しかし日本人には、この構造が分かりにくい。というのも、そもそも日本はアメリカ以上に言論の自由が保障されているため、多くの人が言論の自由をそこまで求めていない。おかげで、多くの人が、逆に「何を言っても許される例外的な存在」を許してない。

しかし、これには大きな弊害がある。というのも、日本は平時は諸外国に比べて言論の自由度が高いものの、有事になると一気にそれが阻害され、全体主義化するという危険性があるからだ(実際第二次大戦時にそうなった)。アメリカは、それとは対照的に普段は言論の自由度が低いのだが、全体主義に陥る危険性は逆に少ない。

アメリカは、そんなふうに「何があっても全体主義だけは避けたい」と思っている。そういう社会にとって、ウィル・スミスの行動は断じて許されないことなのだ。

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