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20歳が読むべきマンガ41タイトルを選んでみた(岩崎夏海)

この記事にインスパイアされて、書いてみました。

はじめに

現代において、「マンガ家になろう」という人は多いと思う。それと同時に、「マンガを論じたい」という人も多いと思う。批評的な眼差しを持ったり、系譜や体系を読み解きたいという人は少なくないはずだ。それによって、マンガをもっと楽しみたいという人もいるはずである。

この41タイトルは、「これらを読めば、マンガを読むこと自体がもっと面白くなる」ということを基準に選んだ。どう面白くなるかというと、体系を理解できるので、マンガがどのように発展し、受け継がれてきたのかを理解できるようなるのだ。

それが理解できるようになると、マンガの本質が見えてくる。マンガにはさまざまな魅力があるが、それは長い時間をかけて、何人ものマンガ家たちによって開発されてきたのだということが分かる。その奥深い魅力を知ることができれば、新たな作品を読んだときにもそうしたものに気づくことができ、面白さも増すというわけである。

ぼくは、マンガがとても面白いと思い、好きである。子どものときも面白かったが、あれから半世紀近くが経過した今でさえ面白いのだから、よっぽど魅力的なのだろう。だから、その魅力の神髄を知ることは、マンガ好きの人はもちろん、それ以外の人にとっても役に立つのではないだろうか。

では、早速ご紹介していきたい。紹介するタイトルは、発表年代順とする。また、基本的に作家1人につき1作品とした。

01 『新寶島(オリジナル版)』酒井七馬/手塚治虫(1947)

この作品は、戦後マンガの「始祖」として、後続に巨大な影響を与えたことで知られている。手塚治虫の伝説の、いの一番にこれが来る。
ところが、その反面、原作者である酒井七馬の功績や、手塚自身がこの作品を冷遇したことはあまり知られていない。この作品の半分は、酒井七馬のものである。手塚の描き直し版もあるが、はっきりいってオリジナルのこちらの方がよほど面白い。だから、読むならぜひこちらを読んでほしい。

02 『隣室の男』松本正彦(1956)

劇画という概念や技法は、今ではマンガそのものに取り込まれてしまった。劇画はマンガの一部、しかも中心になった。だから、「劇画」という言葉は忘れられて久しい。
しかしながら、劇画は当時、一大革命であった。なにしろ、マンガそのものを変えたのだ。その誕生の経緯は複雑だが、最も記念碑的な作品として、この『隣室の男』がある。
読むと、今でも「新しさ」を感じられる。革命を起こしてやろうという気概が、紙面からビンビンと伝わってくるからだ。

03 『忍者武芸帳 影丸伝』白土三平(1959)

大ざっぱではあるが、手塚のマンガは「アニメ」由来、劇画は「文学」由来ということができる。それに対して、白土マンガは「紙芝居」由来である。さらに遡ると、「大衆演劇」由来だ。目の前に客がいて、アドリブ的にハッタリをかます。それを旨としたマンガである。

そのため、無条件で面白い。手品を見ているみたいに、強引に心を持って行かれる。この感覚は、今のマンガにはあまり受け継がれていない。そうなると、白土マンガ(紙芝居マンガ)の復権は、今、狙い目かもしれない。

04 『星のたてごと』水野英子(1960)

アメリカにヘンリー・ダーガーという画家がいた。彼は、「妄想による創作」の威力を示した存在として有名だ。
通常、創作においてはリアリティが重視される。そのため、取材や経験が尊ばれるが、ヘンリー・ダーガーはそれとは全く逆に、全く取材や経験をしなかった。単に妄想だけで絵を描いた。
それが、きわめて高い芸術性を持つこととなった。そうして、妄想も突き詰めると、ある種のリアリティを持つということを証明したのだ。

水野のマンガにも、それと同種の迫力がある。妄想の育んだ豊かなイマジネーションの前に、読者は圧倒される。戦後の抑圧された時代に、少女という最も抑圧された立場にいた水野の妄想は、突き抜けの度合いが飛び抜けて高いのだ。

05 『龍神沼』石ノ森章太郎(1961)

実は、石ノ森章太郎は手塚治虫に絶大な影響を与えている。逆ではない。弟子が師匠に影響を与えたのだ。
手塚は、石ノ森以外の後輩からもいろんな影響を受けているが、最も大きかったのは、他ならぬこの石ノ森からではないだろうか。それは、この『龍神沼』を読むとよく分かる。この作品が描かれた後に、手塚は自身の代表作ともなる『火の鳥』を描くのだが、その絵や構図、そして内容に至るまでが、『龍神沼』とそっくりなのである。

06 『漫画家残酷物語』永島慎二(1961)

『漫画家残酷物語』は、マンガ表現における金字塔である。エベレストである。何が最高かというと、技法である。これを超える技法のマンガは、今に至ってもない。
驚くことに、それは今読んでも分かる。古くささが全くない。具体的にいうと、構図、コマ割り、コマ運び——この3つが抜群である。その意味で、永島慎二は歴史的な「名演奏家」だった。ただただ、その運指の見事さに聞き惚れる。

07 『スーダラおじさん』赤塚不二夫(1962)

赤塚不二夫というと、2大代表作は『おそ松くん』と『天才バカボン』ということになる。しかしながら、実はその前段となる読み切り作品『スーダラおじさん』に、その魅力の全てが表れている。この作品で赤塚不二夫は覚醒し、上記2つの大ヒットにつなげることができたのだ。

赤塚不二夫のマンガの本質とは何か?
一言でいうと、それは「父への憐憫」である。そのテーマが、早くもここで表れている。

08 『巨人の星』梶原一騎/川崎のぼる(1966)

『巨人の星』は、タイトルだけなら誰もが知っている。アニメだけなら見たという人も多いだろう。
しかし、「マンガを読んだことがある」という20歳は、きわめて少ないのではないだろうか。
その理由の一つは、後年誤ったイメージが流布したからである。それで、「読む必要がない」ととらえられてしまっている。
しかし、それは端的にいって誤解だ。この作品は、正しくマンガの革命であり、今読んでも文句なく面白い。ただただ、一読をおすすめする。

09 『007 死ぬのは奴らだ』さいとう・たかを(1968)

「さいとう・たかを」というと、どうしても『ゴルゴ13』のイメージが強い。しかしながら、その表現はすでにこの『007』シリーズで完成の域に達していた。
その魅力は、3つある。「洒脱なアクション」「海外描写のリアリティ」「洗練されたシナリオ」である。それらの要素が、この作品において爆発したのだ。だからこそ、後年の『ゴルゴ13』につなげることができた。

10 『あしたのジョー』ちばてつや(1968)

この作品も、知らない人はいないだろう。ただ、やはり読んだことがない人は多いだろうし、誤解もされている。
このマンガの本当の魅力は、実は力石が死んだ後なのだ。そこからジョーの放浪が始まるのだが、この展開こそ、後年ジャンプマンガの黄金パターンとして受け継がれ、数々のメガヒットを生み出すこととなるのである。

11『ドラえもん』藤子・F・不二雄(1969)

誤解を恐れずにいうならば、『ドラえもん』の全ての魅力は、6巻収録の仮の最終回「さようなら、ドラえもん」に詰まっている。Fは、要は「SF短編の名手」なのだ。もちろん、他にも魅力はあるものの、何よりSF短編の名手であったことが、『ドラえもん』を地位をここまで押し上げた。それをこの上なく実感できるのが、「さようなら、ドラえもん」というわけである。

12 『子連れ狼』小池一夫/小島剛夕(1970)

この作品は今、アメリカでも大人気だという。その一番の魅力は、「復讐に燃える殺し屋が、子連れで乳母車を押している」という、誰もが分かるそのギャップの大きさにある。いわゆる「ギャップ萌え」の魅力だ。
ただし、この作品の魅力はそれだけではない。準主役の大五郎——特に彼のキャラクターと、その赤ん坊のときのエピソードが、この作品を大化けさせた。

13 『アゲイン』楳図かずお(1970)

楳図かずおというと、初期の怪奇マンガや、中期の『まことちゃん』や『漂流教室』などを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、真の代表作はこの『アゲイン』だ。この作品には、楳図かずおの3つの魅力、すなわち「怪奇」「子ども」「SF」の全てが詰まっている。その3つのアンサンブルが、読者にいわくいいがたいマンガ体験——感動をもたらすのだ。

14 『銭ゲバ』ジョージ秋山(1970)

あまり知られてはいないが、『銭ゲバ』は「マンガ史を変えた作品」である。この作品の主人公「蒲郡風太郎」は、後に他のマンガ作品へと転生して、名前を次々と変えていく。最初は2人に分裂し、1人は「賀間剛介」もう1人は「殿馬一人」となった。さらに後年、その殿馬が転生し、今度は「流川楓」になった。だから、名前の中に風太郎の「風」の字が隠れているのだ。

15『ポーの一族』萩尾望都(1972)

70年代初頭、少女たちは正体不明の「生きづらさ」に悩んでいた。そのモヤモヤを、なんとか解消したい。そんなとき、この作品と出会う。少女たちは、文字通り「夢中」になった。そこには、自分たちの「生きづらさ」の理由が描かれていた。また、そこに描かれていたのは、自分だった。

この作品には、一つの伝説がある。それは、アンケートの順位が最下位だったということだ。それにもかかわらず、発売された単行本は3日で3万部を完売した。まだ「単行本を買う」という習慣のない時代に、これは驚異的な数字だった。

なぜ、アンケート最下位だった作品が驚異的な売上げを記録したのか?
それは、人間というものが「本当に面白い作品に出会うと、それを自覚できないから」だ。ただただ夢中になってしまう。自分でも「面白い」と気づけないのだ。そのため、『ポーの一族』も、面白いと気づくまでに、長い時間を必要としたのである。

16 『ドカベン』水島新司(1972)

この作品も、『ポーの一族』と似ているところがある。読者は、面白いとなかなか気づけない。ただただ夢中になるだけだ。
読んでから10年くらいが経過して、ようやく「ハッ」と気づく。
「あのマンガは、面白かったんだ!」

後年、そのことに気づいた2人のマンガ家がいた。1人は、自分のマンガの主人公に、『ドカベン』の主要な登場人物・岩鬼正美の決め台詞「花は桜木男は岩鬼」から字をもらって「桜木花道」とつけた。もう1人は、『ドカベン』で展開された「主人公以外の登場人物同士が対決する」という手法にしびれ、後年、自分のマンガでもそれを採用した。主人公のゴンが戦うのではなく、脇役である蟻の王とネテロを戦わせたのだ。

17『風と木の詩』竹宮惠子(1976)

「禁断の果実」という概念がある。人は、それを食べたがために、死や不幸を背負うことになった。
竹宮惠子の読者は、この作品でそれを食した。おかげで、一生に一度の激烈な読書体験を味わう。「自分の中に眠っていた感覚が開発される」ということの、ショックと快楽を覚えるのだ。

しかし、それがまさに禁断の果実だった。おかげで以降、この作品の読者は「他のどのマンガもつまらなく思える」という、強烈な後遺症に悩まされることとなる。

18 『がんばれ元気』小山ゆう(1976)

作者の小山ゆうは、ダフト・パンクによく似ている。作品の完成度が、恐ろしく高いのだ。おそらく、マンガ史上ここまで完成度の高い作品を描く作家は、小山をおいて他にいない。

中でも取り分け、『がんばれ元気』の完成度は高い。この作品は、『One More Time』に似ている。
よく知られるように、『One More Time』はエディ・ジョーンズの『More Spell On You』をサンプリングして作っている。
『がんばれ元気』も、『あしたのジョー』をサンプリングしている。そこに、映画『チャンプ』や日活の青春映画、川谷拓三なども混ざっている。さらに、小山が元々さいとう・たかをのアシスタントだったことから、そのテイストさえ採り入れられているのだ。
このサンプリングの魅力を受け継げでいるのは、ただ1人、冨樫義博だけだろう。

19 『ガラスの仮面』美内すずえ(1976)

『ガラスの仮面』の面白さは、白土三平作品の系譜に連なるものである。「ハッタリ」の面白さだ。アドリブが醸し出すケレン味の魔力である。
面白いのは、その「アドリブのケレン味」が、そのまま作品のテーマにもなっていることだ。主人公の北島マヤ自身が、アドリブのケレン味を最大の武器としている。

そのため、作者である美内のアドリブと、主人公マヤのケレン味がシンクロして、読者は次第に「マンガを読んでいるのか、劇を見ているのか」がよく分からなくなってくる。そういうメタフィクショナルな構造も、このマンガの魅力の一つだ。

20 『まんが道』藤子不二雄(A)(1977)

マンガ史における『まんが道』の最大の功績は、まさに「マンガ史」というものの存在を多くの読者に知らしめたことだろう。いわゆる「トキワ荘史観」を生み出し、手塚の神格化はもちろん、トキワ荘の神格化も果たした。以降、それをマンガ史ととらえる人が増えたため、それ以外の史観が見えづらくなるという弊害さえ生み出した。

マンガ史における『まんが道』の最も大きな影響は、『新寶島』の評価を不動のものとしたことだ。以降、『新寶島』はマンガの始祖と位置づけられるようになった。
しかし皮肉なことに、それが後年、他ならぬ手塚治虫自身を苦しめる。なぜなら『新寶島』は酒井七馬との共作であった。そのため、手塚としてはそれを代表作にされることは、自尊心を傷つけられるところがあったのだ。

手塚が死ぬまで精力的にマンガを描き続けたのは、もしかしたら『新寶島』を超える代表作を生み出したかったからかも知れない。その努力は、半分報われた。『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』はもちろん、『火の鳥』や『ブッラクジャック』も手塚の代表作となった。
しかし、半分はやはり徒労に終わった。手塚の評価が高まるにつれ、『新寶島』の価値は衰えないばかりか、ますます高まることとなったのだ。

それが、手塚のマンガ家人生における最大の誤算だったかも知れない。

21 『うる星やつら』高橋留美子(1978)

この作品は、単にマンガ史だけではなく、日本の文化史におけるきわめて重要な役割を持つ。というのは、まだ「オタク」という言葉が生まれる前に、すでにオタクを概念化し、それを主人公・諸星あたるのキャラクターに落とし込んでいるからだ。

ときに、「処女作には作家の全て表れる」といわれるが、この作品には「オタクの全てが表れる」といっても過言ではない。諸星あたるこそ、オタクというものの象徴にして中心だ。だから、オタク的心性を持った若者たちは、諸星あたるに自己投影し、夢中になってこの作品を読んだ。もちろん、「面白い」ことにはしばらく気づかなかった。

22 『がんばれ!!タブチくん!!』いしいひさいち(1979)

この作品は、2つの意味で重要である。
一つは、「四コママンガ」というジャンルを復活させたこと。この作品が出るまで、四コママンガはほとんど死に体だった。この作品がなければ、後の『伝染るんです。』や『あずまんが大王』、引いては今の美少女四コマもなかったであろう。

もう一つは、この作品の映画化が大ヒットし、それが同年公開の宮崎駿の映画デビュー作『カリオストロの城』の大コケを際立たせたことだ。それによって、宮崎は長い間干されることになる。つまり、いしいひさいちが宮崎駿を間接的とはいえ窮地に追い込んだのだ。

そんないしいの作品が、後年、高畑勲によって映画化されたのは、やっぱり因縁深く映る。

23 『ストップ!! ひばりくん!』江口寿史(1981)

この記事を書く中で初めて気づいたが、このタイトルは『がんばれ!!タブチくん!!』のパロディだったのかもしれない。そっくりだ。内容は違いすぎていてかかわりはほとんどないが、裏を返せばそれだけ『がんばれ!!タブチくん!!』の影響力が強かったともいえよう。

この作品は、江口寿史がイラストレーターとして開眼するきっかけになった。特に、女の子をかわいく描くというコンセプトを初めて明確に打ち出した。
これは、紛れもなくマンガの新しい流れとなった。それまでのマンガは、今では信じられないが、絵の上手さはそれほど重要ではなかったのだ。しかしこの作品以降、絵の持つ魅力というものが、より重視されるようになった。

24 『タッチ』あだち充(1981)

個人的に、この作品は連載当時、「面白い」とは気づかなかった。それほど夢中になって読んだ。
この作品が、マンガ史のみならず世の中そのものに与えた影響は計り知れないほど大きい。特に、ヒロインの名前である「南」という名の女の子が急増した。そんなふうに、多くの人の名前さえ変えさせたのだ。

また内容も、今思うとまさに「時代のバトン『タッチ』」を描いている。それ以前のスポ根な価値観から、それ以降のオタク的な価値観へのバトン「タッチ」を描いている。そういう、きわめて時代性の強い作品でもあった。

25 『風の谷のナウシカ』宮崎駿(1982)

この作品だけ、このリストの中で唯一「マンガ家以外の人」が描いている。しかし、『風の谷のナウシカ』は紛れもないマンガだ。しかもマンガ史のみならず、文学史、文化史的にもきわめて重要な作品である。

この作品は、今後数百年、読み継がれるのではないだろうか。もしかしたら、彼のアニメ作品が見られなくなった後でも、読み続けられるかもしれない。それほどの作品である。

このマンガの最大の特徴は、「読みにくい」ということだ。これも、このリストにおいては例外的な特性だ。
しかしながら、それも含めて名作なのだ。その意味で、マンガにおける「読みやすさの価値」を考えさせてくれる、格好のサンプルともいえよう。

26 『童夢』大友克洋(1983)

大友克洋の代表作は、『アキラ』という人と『童夢』という人に分かれる。希に『Fire-Ball』という人もいる。しかしぼくは、この『童夢』を押したい。

大友克洋の後世に与えた影響は、今さら言うまでもないだろう。特に『アキラ』は、今の20歳でも読んだことのある人は多いはずだ。

『童夢』の魅力はいろいろあるが、やはり「団地の描写」が素晴らしい。この空間表現は、いまだにマンガの最高峰だ。
「童夢のドカン!」と聞いて、その光景をありありと思い浮かべられる人も作なくないはずだ。「童夢のドカン!」を知らずして、マンガ史を語ることはできない。

27 『河よりも長くゆるやかに』吉田秋生(1983)

吉田秋生というと、やっぱり『BANANA FISH』を真っ先に挙げる人が多く、次いで映画化された『海街diary』や『桜の園』も人気だ。
けれど、それらの作品が持つ魅力は、全てこの作品の中に先行して表れている。ここに出てくる男子学生2人は、後の『動物のお医者さん』の魅力にも通じるところがある。吉田秋生は、非セクシャルな関係を描くことに長けていて、それはこの時代、実はきわめて希な個性であった。

28 『DRAGON BALL』鳥山明(1984)

『DRAGON BALL』の最大の特徴といえば、やはり「途中で話が変わったこと」だろう。途中から、タイトルにもある「ドラゴンボール」はどうでもよくなってしまい、格闘マンガへと変貌した。
その意味で、ストーリーは完全に破綻している。しかしその破綻が、『DRAGON BALL』を不朽の名作に押し上げた。

このことから分かるのは、マンガにおいて「途中で話が変わること」は、一つの魅力になるということだ。『がんばれ元気』のように、完成度の高さは必ずしも必要とされない。
むしろ、この作品のように徹底的に破綻していることが、かえって魅力になる場合も多いのだ。

29 『るきさん』高野文子(1988)

高野文子は、このリストの中で唯一ともいえる個性を持った作家だ。その個性とは、唯一「代表作」がないということである。従って、彼女の場合だけ、全作品を読んだ方がいい。

特に、その技法は常に変遷している。変遷というより、進化している。その進化の歴史が、そのままマンガの進化の歴史ともいうことができる。

30 『寄生獣』岩明均(1988)

20歳でも、『寄生獣』を読んだことのある人は多い。もう30年も前の作品だから、その意味では超ロングセラーである。今でもネットで定期的に話題になるし、カットのいくつかはミームとして定着している。そんなふうに、ネット時代とも相性がいいのだ。

しかし、この作品がマンガ史においてどれほど重要かということを知っている人は、今はほとんどいないだろう。今ではみんなすっかり忘れてしまったが、1990年代は、盛んに「マンガが面白くなくなった」と言われていた。そうして実際、マンガの売上げも徐々に落ちていた。マンガははっきりと低迷期に入っていた。

その状況を立ち直らせたのが、他ならぬこの作品である。この作品は、マンガのアクションの面白さを再発見した。具体的にいうと、「目に見えないほどの速いスピードでのバトル」が面白いことを見つけた。それを、このマンガがみんなに教えてくれたのだ。

おかげで以降、「目に見えないほどの速いスピードでのバトル」を描いたマンガが、急激に増えていく。あのマンガもあのマンガも、あのマンガもそうである。どれもヒット作ばっかりだ。
『寄生獣』以降、全てのヒット作は『寄生獣』フォロワーとなってしまった。

31 『Pink』岡崎京子(1989)

岡崎京子の『Pink』は、『寄生獣』とは逆に、今の20歳にとって理解が難しい。それは、1989年頃(バブル末期)の女子高生の空気というものを前提に描かれているからだ。それを知らないと、なかなかその面白さを感得できない。

岡崎京子は、バブル末期の停滞した気分を描いた。それは、70年代の気分を描いた萩尾望都や、80年代の気分を描いた吉田秋生の系譜に連なるものだ。そして、90年代の気分を長年にわたって描くことになる『ちびまる子ちゃん』にもつながるものである。

そんなふうに、日本の少女マンガは「少女の言葉にならない抽象的な気分」を表現することにおいて、卓抜したメディアであった。しかし現代は、そうした少女の気分というものは、昔に比べるといくらか廃れてしまったのかもしれない。むしろ、男の子や大人の方が、そういう気分を持つようになった。そのことが、少女マンガが廃れた一つの原因かもしれない。

32 『自虐の詩』業田良家(1990)

『自虐の詩』は、マンガというより文学だ。短い四コママンガの連作が全体として大河ドラマを織りなしている。

このマンガの最大の特徴は、「途中で主人公の過去を掘り下げること」だ。これは、『ドカベン』『スラムダンク』『ONE PIECE』『HUNTER×HUNTER』などに連なる、マンガの伝統的な手法である。
しかし、それをここまで押し出した作品は珍しい。この作品は途中から、主人公の過去こそが主題になる。

33 『HUNTER×HUNTER』冨樫義博(1998)

この作品は、マンガ史の一つの集大成である。この作品には、それまでのマンガが培った「面白さ」の全て詰まっている。
そのため、「無人島に1作品だけ持っていく」としたら、ぼくだけではなく、多くの人がこのマンガを選ぶだろう。なぜなら、このマンガには過去のマンガの、ほとんど全ての面白さが詰まっているからだ。

中でも、やはり蟻の王とネテロの戦いは悪魔的な面白さだ。そこには『ドカベン』や『寄生獣』はもちろん、『ハチミツとクローバー』の面白さまでもがサンプリングされている。

34 『バカボンド』井上雄彦(1998)

『バカボンド』には、一つの弱点がある。それは、「『バカボンド』を好き」というと、「スカしたリア充」のように思われることだ。特に、マンガオタクからはその発言を嫌われる。マンガに詳しい人ほど、えてして『バガボンド』を軽視し、敬遠する嫌いがある。

確かにぼく自身、「『バガボンド』が一番好き」という人とは、あまり仲良くなれない。『バカボンド』の評論や『バガボンド』を激推しする雑誌「Switch」を読んでも、今一つ面白いと思えなかった。

しかし、それでもなお『バガボンド』は面白い。それは、単に絵だけの魅力ではない。どうしても絵の魅力ばかりが語られるが、やはりマンガとして面白い。

特に、田植えのシークエンスは、マンガとしての面白さが爆発している。『バガボンド』は、後半になればなるほど、どんどんと面白くなっているのだ。これは驚くべきことである。『バカボンド』には、まだまだ伸びしろがある。本気を出すのは、これからなのだ。

35 『あずまんが大王』あずまきよひこ(1999)

この作品も、『バカボンド』と同じ弱点を抱えている。それは、この作品を好きだと言うと、みんなから白い目で見られることだ。特に女性に言うとドン引きされる。あるいは男に言うと、ほとんどの人が「なぜ『よつばと!』を選ばない!」と言われる。

しかしながら、マンガ史的にはもちろん、マンガの内容的にも、この作品は『よつばと!』よりもはるかに重要である。それは、四コマの連作が生み出すグルーブ感が、やはり強烈な読書体験につながるからだ。これは『自虐の詩』にもつながるものだが、この手法がハマると、普通のマンガよりもさらに強烈な読書体験になる。

それは、四コマと四コマの行間が、恐ろしいほどのリアリティを伴って立ち上がってくるからだ。この作品は、女子高生の3年間のできごとを描いているのだが、その途中途中の「描かれなかったできごと」まで、読者はありありと想像することができるようになる。
これは、『よつばと!』はもちろん、他のマンガではなかなか体験できないことだ。

36 『舞姫 テレプシコーラ』山岸凉子(2000)

この作品は、悪魔のような魅力を持つ。というのも、主人公は典型的な「マンガキャラ」で、「大きな弱点を持つ一方、秘めたる天才性も持っている」というふうに設定されている。だから読者は、弱点が招いたピンチにハラハラしつつ、「その天才性がいつ爆発するのか」と、期待しながら読めばいい。結末はハッピーエンドになるだろうと、安心しながら読める。その意味で、『ガラスの仮面』と似た構造を持つ。

ところが、そこに落とし穴が待っている。そういうふうに油断していると、とんでもないショックを味わわされる。
途中に、主人公とは別の登場人物が、とんでもない展開に巻き込まれるのだ。おかげで読者は、完全に不意を突かれる。安心しきっていたところにそれが来るから、ショックは何倍にもなる。

それが、この作品最大の魅力だ。しかも、この作品はけっしてそうしたショックを狙っているわけではない。それはあくまでも副次的なことで、主題はあくまでも主人公の成長なのだ。しかも、それはそれでちゃんと面白いのである。

37 『DEATH NOTE』大場つぐみ/小畑健(2003)

この作品も、マンガ史においてきわめて重要な作品だ。それは、初めて「ネットと融合」した作品だからである。それも、ネットを内容に取り入れただけではなく、作品自体がネットで広まった。そんなふうに、作品の内と外とで、ネットと絡まり合いながら成立した作品だった。

その意味で、この作品も「メタフィクショナルな魅力」を有しているといえる。それは、正しく『ガラスの仮面』の系譜を受け継ぐものである。
実際、『ガラスの画面』の「おそろしい子」を知らない人がいないように、『DEATH NOTE』の「計画通り」を知らない人も、ネットには皆無である。

38 『夕凪の街 桜の国』こうの史代(2003)

こうの史代は、『この世界の片隅に』の方が有名であるが、それの前段として描かれたきわめて重要な作品が、この『夕凪の街 桜の国』である。

この作品は、「広島の原爆を直接的に描かないことによって、逆に広島の原爆を描く」ということをコンセプトにしている。そして、それは『この世界の片隅に』にも連なることだ。

こうのはなぜ、原爆を直接的に描かなかったのか?
それは、彼女が戦後生まれで原爆の体験がなかったということもあるが、それ以上に大きかったのは、「この世界にはすでにそういう作品があった」ということだ。『はだしのゲン』という、原爆を直接的に描いた素晴らしい作品がすでにある以上、そこに屋上屋を架すことには意味がなかった。
それならば、逆に世の中の多くの人が知らない、「原爆がもたらした二次被害」を、原爆を直接的に描かないことによって描く。そのことの、価値は大きい。
そうしたこうのの「作家魂」が炸裂したからこそ、この作品はマンガ史に残る名作となった。

39 『進撃の巨人』諫山創(2009)

この作品は、2010年代の「子どもたちの気分」を表したという意味で、記念碑的である。だから、多くの子どもの読者を獲得した。その意味で、実は少女マンガの魅力の系譜を引き継ぐ作品でもある。これは、『鬼滅の刃』にも共通するものだ。

実は、2000年代の初めから、子どもたちを支配する「気分」というものが生まれ始めていた。それは、「正体不明の敵がいる」ということの恐怖である。
それは、姿が見えない。そしてどうやら、「味方」の中に隠れているらしい。

「正体不明の敵とは、一体誰なのか?」

興味深いことに、その答えが明かされるのが、『鬼滅の刃』という作品においてなのである。

40 『鬼滅の刃』吾峠呼世晴(2016)

この作品と『進撃の巨人』は「対」になる存在だ。どちらも、正体不明の敵を描いている。
そして、『進撃の巨人』においてはその正体がなかなか明かされないが、『鬼滅の刃』においてはすぐに明らかになる。それは、「親に虐げられた子どもたち」だ。しかも、それを倒すのも、主人公以外は同じ境遇の子どもたちである。このマンガは、親に虐げられた子ども同士が、鬼と鬼滅隊とに分かれて戦う話なのだ。

この作品は、マンガ史のみならず、2010年代の日本を読み解く上でのマスターピースともいえるだろう。現代日本は、家族と学校とがこれ以上なく破綻している。その最大の被害者である子供たちは、敵味方に分かれて戦うこととなった。その気持ちを代弁してくれたからこそ、この作品はマンガ史上最大のヒットとなったのだ。

41 『ルックバック』藤本タツキ(2021)

『ルックバック』は、マンガ史における一つの集大成のような作品だ。『新寶島』に始まる全てのマンガの系譜を受け継ぎ、その上で次の世代に語り継ぐ「リレー走者」のような役割を担っている。

特筆すべきは、その「マンガ内マンガ」だ。そこでは、対比的に「絵が上手いマンガ」と「内容が面白いマンガ」の2つが出てくる。そして、お互いの作者が相手を尊敬し、意識し、競い、分かり合う。そこには、永島慎二の『漫画家残酷物語』や、藤子不二雄の『まんが道』の伝統も響いている。

そんなふうに、このマンガの主人公は「マンガ家」であり「マンガ」である。それゆえ、強烈に「マンガとは何か?」という哲学的な問いを読者に投げかける。
しかも、それに対して誰より作者が、誠実に答えを提示している。問いを投げるだけではなく、その答えまで、自分の内面ぎりぎりのところまで潜っていって、きちんとえぐり出してくれているのだ。

ぼくは、このマンガを読むと涙が出てくる。それは、作者に激烈なマンガへの愛、そして先輩マンガ家たちへの尊敬が感じられるからだ。と同時に、それを受け継ぎながらもなお、超えていこうとする強烈な気概も感じる。

とにかく、すごい作品である。この作品を読めたことは、ぼくのマンガ読者人生の中でも一、二を争うほどの幸せなことであった。

おわりに

マンガは、すばらしい。今なお、魅力的な作品が生まれ続けている。
最初にも書いたが、ぼくは今でもマンガを読んでいる。これは、50歳を超えた身としては、非常に希有なことだ。
そんなマンガに対して言うことがあるとすれば、ただただ「ありがとう」に尽きる。

おしらせ

今度、「第8回岩崎夏海クリエイター塾」という私塾を開講します。こちらでは、マンガについての議論もしていますので、ご興味のある方は、よろしければこちらの記事をご覧ください。


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