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無関心に関して

いつも応援してくださる皆さんへ、私に関して知って頂きたいことがあります。

私は今、noteで話題になっている(現時点でいいねが500を超えています)松本杏奈さんがとても羨ましいです。

なぜなら、私のような存在になると、もはや誹謗中傷すら誰もしてくれないからです。

私の家庭環境について

確かに私の父は東京芸大建築科からハーバード大学大学院に進んだ建築家です。

しかし、父は、高校のとき以来、私から「お父さん」と呼んでもらえなくなったほど、父との関係は決して良好ではありませんでした。

私は、その父の金で、私立茗渓学園高校に通っていました。

3年生のときに、これまた父の金で、代々木ゼミナール造形学校(現・代々木造形学校)という、美術系大学のための予備校に通っていました。

私の家は、「茨城県つくば市」という都心からは大変に離れた隔絶されたへんぴな逆境にあったため、そこから片道約3時間をかけて、毎週土曜日の朝9時から始まる造形学校の講習に通っていました。

造形学校に行く日は、いつも朝5時に起きて支度をし、6時に自転車で家を出ました。そこから最寄りの荒川沖駅まで40分かかり、さらにそこから2時間余りをかけて校舎のある代々木まで通っていました。

造形学校の授業は午後4時に終わるのですが、その後はいつも武蔵小金井に住んでいた母方の祖父母の家に行き、泊まらせてもらっていました。母方の祖父は、海軍機関学校出身のエンジニアで、終戦時にはフィリピンの捕虜収容所で所長をしていたためB級戦犯で終身刑となり、15年間巣鴨プリズンに服役していました。出所後は出光興産にお世話になり、そこから定年まで勤め上げていました。

武蔵小金井にある祖父母の家に泊まった翌日の日曜日、また9時に造形学校へ行き、土曜日と同じように授業を受け、その後、茨城の自宅まで3時間をかけて帰っていました。家に着く頃にはなんだかんだで夜の8時頃になっており、そこから遅い夕食をとっていました。これを1年間、欠かさず続けていたのです。

私は東京芸大建築科を受験するつもりだったのですが、これはやはり東京芸大建築科出身であった父のすすめによるものでした。造形学校に通ったのも、父のアドバイスによるものです。

そのため、父は受験には一貫して協力的でした。お金も出してくれましたが、OBとしてのいくつかのアドバイスもくれました。ちなみに、「父が東京芸大建築科出身」という環境は、代々木ゼミナール造形学校の70人の生徒の中で私1人だけでした。また、20倍の難関を突破して合格した17名の同級生の中でも、そうした恵まれた環境はやはり私だけでした(大学受験の面接で、「君は岩崎駿介氏の息子か?」と聞かれました)。

ですから、皆さんが考えているようなコネクションは、完全にあります。私が東京芸大建築科に現役で合格できた理由は知るよしもありませんが、裏口入学ではないにしろ、かなり下駄を履かされていたのは確かです。

お金に関して

父と母は、離婚していません。そのため、高校や予備校はもちろん、大学の費用一切も、両親に負担してもらいました。

お金持ちだと誤解されるのが嫌で、過去に家庭環境については何度となく公開してきましたが、ここでもあらためてくり返します。その頃の父は筑波大学の助教授でしたので、公務員の給料しかもらっていません。しかしながら、父方の祖父が岩崎書店という出版社の創業者である岩崎徹太で、その妻である岩崎治子は、岩崎美術社というやはり出版社の創業者でした。

そのため、かなりの資産を持ち合わせており、私自身は詳しくは知りませんが、両親に対してなにくれとなく援助はあったように想像しています。

私が東京芸大建築科を選んだのは、こうした恵まれた環境から抜け出したかったということがあります。すなわち、「環境だけのやつ」とは思われたくなく、自分の実力を示したかったのです。

ちなみに、父方の祖父は早大出身、母方の祖父は海軍機関学校の出身、両親はともに東京芸大出身です。父と母の兄弟も全員大学に行っています。

私の母は、東京芸大工芸科出身で、昔、こんな本を出していました。

また、両親は今、2人でこんな家を作っています。

そんな環境で育ったためか、私も幼い頃から「大学に行くものだ」と当然のように思い込んでいました。大学に行くためのお金も、当時はバブルということもありましたが、両親が出すのが当然と思っていました。

ただ、かかった費用は私立茗渓学園高校の学費と、予備校の費用くらいだったように思います。私は現役で合格したため、予備校には1年間しか通いませんでした。また、当時の国立大学の学費は年間30万円でしたので、両親にとってもそれほどの負担ではなかったはずです。ですから私は、自分の実力で、両親にはほとんどお金を負担させませんでした。

「味方なし」について

これもところどころで公開していますが、私は、当時はもちろん今も味方が1人もいません。妻は口を利いてくれなく、まだ幼い娘はうまく言葉が話せません。会社もスタッフが全員辞めてしまい、今は社長のぼく1人しかいません。以前社長をしていた岩崎書店も退社しました。

そのため、誹謗中傷こそされませんが、ずっと無視され続けています。この記事も、きっと数多くの皆さんから無視されることでしょう。

「愛情の反対は無関心」と言ったのはマザー・テレサですが、まさにその「愛情の反対」を、徹頭徹尾、受け続けているのが私です。受験すると決めた当時、私が「東京芸大建築科を受験するんだ」と言っても、担任の先生もクラスメイトも、みんなノーリアクションでした。ほとんどの人が、まずそこがどんな学校かよく分かっていなかったというのもありますが、それ以上に私に対する関心がマイナス100だったからです。私は空気のような存在でした。

また父は、前述のようにお金とアドバイスこそくれましたが、やはり仕事に忙しく、それ以外は無関心でした。母も東京芸大出身ですが、学科が違うこともあってか、特にアドバイスはいただけませんでした。

これが真実です。

本当は、ここまでの内容は書きたくありませんでした。

しかし、私が何も言わない限りはこのまま無関心が広がり続けてしまい、まるで私の人生がなかったかのように扱われることが本当に苦痛だったため、公開に踏み切りました。

特に、私の有料メルマガを読んでいれば確実に私のことを好きになってもらえるだろうレベルの無関心も散見されました。多くの人にメルマガが購読されなかったのが、悔しいです。みなさん、ぜひともご購読、よろしくお願いします。

また、現在「第8回岩崎夏海クリエイター塾」という私塾を開講中です。こちら、途中からでもご参加いただけますので、ご興味のある方は、よろしければこちらの記事をご覧ください。

最後に

今も、こうやって告発することで、また無関心が広がるのではないかと、正直とても怖いです。

私は、「たとえ恵まれた環境にあろうと、私には実力がある」と言う声を届けたいという気持ちから、責任を持って本名と顔を出し、Twitterを始め、もしドラも書きました。

しかし、無関心が拡散され、私の思いが無視されたり、なかったことにされてしまう状況には、耐えられません。

「お金がある人」「文化資本に恵まれている人」「コネクションがある人」しか、もしドラを書けないと、後輩たちに思わせたくないと思い、この文章を書く決心をしました。

….

あまりのストレスでこの1ヶ月3回も逆流性食道炎でしたし、ぜひ知ってほしいと思っている私の家庭環境に何度も言及しないと収束がつかない状況や、自分のプライドのなさってなんだろうかと考えると、悲しいです。

ただ、私は、東京芸大建築科の同級生約17人中、指1本で数える程しかいない、帰国子女で(アメリカとタイに暮らしていました)、インターナショナルスクール出身で(小学校のとき、インターナショナルスクール・オブ・バンコクに通っていました)、英語バックグラウンドもそれなりにある芸大OBです。日本の後輩たちに、こんな私でも、芸大に受かるのだと分かってもらいたいです。

そして、私は現在お世話になっている、この分野で世界の最前線を走る長年憧れだった福岡県糸島市で子育てに引き続き従事し、その背中で日本の幅広く明るい未来を描けることを信じて、これからも前を向いて進んでいきたいと思っています。

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これからも応援よろしくお願いします。

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