かまってほしい。
児童館の子たちと関わっていると「ああ、かまってほしいんだな」とひんぱんに思う。
直接そう言ってくるわけではない。
でも、こちらの視線を、意識を、関心を引くためだけに、子どもたちは近づいたり、話しかけてきたりしているのがわかる。
僕は作業や話し合いの最中には集中したい方だが、そんなことお構いなし。彼らは容赦なく、こちらが手を留め、関心を向けることを求めてくる。正直、困ることも多いけれど、切実さは伝わってくる。
一昨日と昨日の「ほぼ日刊イトイ新聞」で、糸井重里さんが赤ちゃんのことを書いていた。
会いに行こうと思えば行ける場所に、生後半年にもならない赤ん坊がいると、ついその成長の過程をおもしろがって観察してしまう。
(略)
ことばなどなにも知らないはずなのに、知り合いの子どもたちが読み聞かせをしてくれたら、それをまじめに聴いているようなのである。じぶんに向けての語り、という交流そのものに、興味と快感があるのだろうと思う。
ことばをかけられるというのは、人間にとって、撫でられたり抱かれたりするのと同じようなうれしさなのだろうと思えた。
ここに意味というものが乗ってくるのはずっと後のこと。
(略)
それは、おとなになってからのことでもある。
頭を撫でられたり抱きしめられたりすることに、文字やことばは関係ない。意味が乗ってくるのは、うれしさの後なのである。
児童館の子たちについて「そんなにかまってほしいもんかな」と思うところもあったけれど、ことばをかけられることは、撫でられたり抱きしめられたりするのと同じようなうれしさなのだ。
そのとき、意味は関係ない。
実際、子どもからの呼びかけに応じると、ほとんど意味をなさずに会話は終わる。用事があるわけではないからだ。
気が済んだのか、飽きたのか、「こいつじゃだめだ」と思ったのか、しばらく経つと、子どもは、たーっと走り去っていく。
なんだか自分が消費されたような気分が残る。
本当に欲しい関心は、僕のではないんじゃないの?とも思う。
けれど、繰り返しそうしているからには、やっぱり「ことばをかけられるのは、撫でられたい抱きしめられたりするのと同じ」で快感があるのかもしれない。
ところで、「かまってほしい」のは、子どもだけじゃない。
僕たち大人だって、コーヒーやゲームやスマホやお酒なんかで「かまってほしい」気持ちを埋めていると思う。「かまってくれなくていいですから」という態度ですら「かまってほしい」気持ちの産物のような気がする。
もしかしたら「仕事」というのは、高度に洗練され、十分に「かまってほしい」が満たせるようになった要求かもしれない
でも、みんながそうできるわけではない。
うまく満たすことができないと「かまってほしい」は、こじれる。
数年前ベストセラーになった『幸せになる勇気』に「問題行動の五段階」というのがあった。
第1段階「称賛の欲求」…ほめられようとする。親や教師に向けて「いい子」を演じたり、組織であれば、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。
第2段階「注目喚起」…ほめられないので、とにかく目立ってやろうとする。社会や学校のルールを破ったり、消極的な子どもだと、忘れ物を繰り返したり、泣いたりといった「できない子」として振る舞うことで注目を集めようとする。
第3段階「権力争い」…誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑むようになる。親や教師に反抗する、非行に走る、消極的な子どもであれば、勉強や習い事を拒絶する。大人の場合、自分にとって得るものがあまりないにもかかわらず、些細なことで絡んでくる。
第4段階「復讐」…「わたしを愛してくれないことはもうわかった。だったらいっそ、憎んでくれ」と、ひたすら相手が嫌がることを繰り返す。そうして「こんな自分になってしまったのはお前のせいだ」と訴える。
第5段階「無能の証明」…「これ以上わたしに期待しないでくれ」と、人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。
第1段階から第5段階へとエスカレートし、深刻化していく。
自分におきかえても、周りの人や子どもたちにおきかえても、当てはまるところがたくさんある。
本によれば、第4段階をこえてしまうと専門家の介入が必要になるが、問題行動の大半は、第3段階の「権力争い」にとどまっている。そして、そこから先に踏み込ませないために「尊敬」によって、「特別である必要はない、そのままで十分価値があるのだ」と伝えていく必要があるという。
尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。
尊敬とは、その人がその人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。
これは、社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉だそうだ。
目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。それが尊敬なのだという。
" 特別でなくても、あなたには価値がある。"
いろんなところで聞く言葉だ。もともと特別なオンリーワン。
それを伝えることを「尊敬」というのか。
でも、たしかにこの意味の「尊敬」には、僕のしているような「すごい人だから尊敬する」という態度にはない射程の広さがある。
それが誰であれ、その人は唯一無二の存在である。
このことは、ある面では当たり前なのだけれど、日常でそんなふうに扱われることは稀だ。だとしたら「尊敬」は、そのことが腑に落ちている人にしかできない態度なのだろうか。
児童館の子どもたちの「かまって」が、こんな話につながってきてしまった。
どんな人にも、敬意をもって接するには。
何度も読んだけれど、『幸せになる勇気』、もう一度読んでみようかな。
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