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勤続疲労。

じぶんの顔を外側から指でなぞって、ほお骨の下、上あごのつけ根を押すと、ちょっと痛い。「こんなところに痛みがあったか」と驚いてしまう。

お風呂の中で、そのつけ根に指をぐっぐと押し込みながら、ここにも、ここにも、と痛みのありかを探るうちに、ずーっとあごを支えている顎関節のことを「さぞかし疲れるだろうよ」と思った。

人のからだはこんなふうにぜんぜん意識しないところで頑張っている。
心臓も呼吸も細胞分裂も、僕らがそのことを忘れていてもちゃんと動いていて、そのおかげで生きている。

生き死にに関わるほど大事なことなのに、僕らの意識はそこに向くようにできていないのだ。他のことだったらいくらでも不安になるのに、なんだか不思議。

そして、人知れずあごを支えてきた顎関節のように、心にもからだにも見えない痛みは、たまっているのだろう。だが、いったいどんな無理を強いているかについて、僕らは気づくことができない。そういう意味では、僕らは自分自身のことをちっとも把握できていないまま、生きている。

もしも僕らが一日だけ、あかちゃんのからだになれたとしたら、どんな感じがするんだろうか。いままで痛みだと思っていなかったところの痛みすらとれて「肩ってこんなに軽いんだ!」「からだってこんなに曲がるんだ!」と驚くかもしれない。

でも、残念ながら、僕らのからだがあかちゃんに戻ることはなく、疲労を蓄えながら、生きることは続いていく。

意味もなく涙が出たりするのは、そうした心やからだの勤続疲労がいたわられたり、ゆるんだりしたからなのかもしれない。

どうしていま、私、こんなに泣いているんだろう?

そういう泣き方をしているとき、人の中では、心の底から安堵しているだれかがいるのだと思う。

そして、特に関連する出来事があったおぼえもないのに、こんなことを書いているのも、僕の中のどこかの勤続疲労がゆるみたがっているのかもしれない。

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