シンデレラのその後

シンデレラのその後。

愛には学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込みである。

愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を見つけることはむずかしい――人々はそんなふうに考えている。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』一九九一年、紀伊國屋書店)

読んでいた本のフレーズが、時をおかずして、別のところで現れる。
そんなシンクロは、いったい何を伝えているのだろうか。
それとも、ただの偶然なのだろうか。

ちょうど読んでいた『愛するということ』の一節が、今日フェイスブックで流れてきた記事の中にあった。

情熱を傾けられるものを探すのではなく、小さな興味や関心を情熱に育てていってはどうか、という記事。

愛と情熱。どちらも炎のように強いエネルギーだが、それは自分にフィットする人や仕事に出会うことで得られるものではなく、いま目の前にあるものを育むことで培われるものだと二つの文章は述べている。ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』とも似たメッセージだ。

僕は三十代の後半まで、運命の人や理想の仕事を探し続けてきた。
意中の人に愛されるために、希望する職場に入れてもらうために「好まれる自分」になろうとした。それはドラマチックな過程をたどったけれど、いま思えば、愛や仕事を育む習練とは程遠かった。

でも結婚してみて、自営業をはじめてみて、「その後」の方がずっと長いし、大事なんだよなあと思っている。

『シンデレラ』にだって、王子様と結婚した後の人生がある。
「Happily ever after(めでたしめでたし)」とされた映画化できない日常のほうがずっと長く、困難で、大切なのだ。

シンデレラの人生に続きがあるように、先のブログ記事にも続きがある。

情熱を見つけたあと、あるいは情熱を育てたあと、そこからはすべて簡単にうまくいく、ということは恐らくないのでしょう。愛であれ情熱であれ、それらしきものを見つけたら楽になるわけではなく、そこから新たな困難な旅路が始まります。

(中略)

愛と同様に情熱は変わっていくものです。調和的だった情熱がいつしか強迫的な情熱になってしまうことは誰にでもあるように思います。だからこそ私たちは情熱に従うのではなく、情熱をうまく自分に従えなければなりません。

仮に愛や情熱を見つけたり、育てることができたとしても、その後にも幾多の困難が待ち受ける。その中で愛や情熱をどう保ち続けるか。強迫的にならずに、どう調和的に付き合っていくか。

これはかなり難しいことのように思う。
そして、この困難を周りと分かち合いながら取り組むことの中に、人としての成熟があるのではないかという気がする。

ふっと、このツイートのことを思い出した。

上皇陛下が退位される際、美智子さまを見つけたまなざし。
その数秒の中に、ここまで語ってきた「育む」ことのすべてがあるように思えた。

シンデレラが一番素敵になるのは、もしかしたら、映画のずっと後なのかもしれない。もしも「Happily ever after」が出るのがこの世を去るときだったら、こんなに素晴らしいことはないよね。

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