信じていた世界がこわれて、さらに信じるものに導かれるとき。
そこでは まだ聞こえますか
きみを呼んでる 明日の声が
どこか遠くの 足音が
近づいてくる かすかな音が
たとえば 木立の中
はだしで寝ころんで
自由に未来の夢 えがいてみる
それでも常識ってやつが
大挙をなして
ぼくらの一挙手一投足を
縛りつけようとするんなら
水面に咲く花の名を
ぼくらはいつも訊かないままで
悩んだり悔やんでみたり
ひたむきに 生きてはいるけど
願いをかなえたいなら
信じるしかない局面ってあって
飛び込むしぶきの中に
救いを見い出すしかない
こうなればこうなる、ああすればああなる、そういう理屈で説明できる世界の気持ちよさってある。
でも、うまく説明できたかのように思えて、よく見えていると思った頃に、どんづまりはやって来て、論理では届かない世界に招かれる。
そういうときに必要なのは「信仰」みたいなものだ。
よくわからなくても、お先真っ暗でも、とりあえず飛び込んでみる勇気というか。
すると、思考の答えではない、人生が出した答えにめぐり会うことができる。人はそういうとき「ははぁ」と感心するばかりだ。
たぶんいま、ぼくはそういう局面にいて、ちょっとだけ困っている。
考えてもなにかできる感じがしないので、じっと「なにか」の声に耳をすませている。
ぼくが道徳よりもアートのほうがすごいと思うのは、善とか悪とか、そういうものを超えて存在するよさに触れられるからなんだと思う。そして、そこにたどり着くにもある種の「信仰」がいるように思えるのだ。
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