救い

ちぎれそうな世界と、「救い」のこと。

以前、ぼくの勤める児童館で、子どもが「問題行動」を起こした。

(起きた出来事は、奥にあるニーズの表明であることが多い。だから「問題」と呼んでいいのかわからないけれど、ここでは「問題行動」として進める。)

その「問題行動」が起点となって、スタッフの話し合いが行われ、保護者が来たり、専門機関が入ることになったりして、彼らの暮らしや環境が変わっていくことになった。

ぼくも昔、「問題行動」を起こす子どもだった。

当時、小学三年生だったぼくは、どういうわけか荒れていて、家の引き出しからお金を盗んだり、近くの工場に石を投げ込んで窓ガラスを割ったりしていた。

ホームルームで先生が割れたガラスのことを質問したとき、ぼくはこわくて嘘をついて黙っていた。そして、いっしょにいた “正直な” 友だちの証言で「問題行動」は発覚し、校長室に呼ばれ、やがて転校することになった。

そのときのことで覚えているのは、担任の先生に正座をさせられ、視界がブラックアウトしたことと、母が「菓子折りを買う」と言っていたこと。すごくこわかったから、それ以外のことは記憶から消したのだと思う。

なぜそんなことをしたのかは、いまでも分からない。
どうしてそれが収まったのかも。

児童館で「問題行動」を起こした子どものことを思うとき、「なぜそんなことをしたのか」をどうやっても説明できない子どもの行き場のなさを想像する。

そして、その説明できない子どもの様子だけを頼りになんとかしなければならない親御さんたちの苦労も、いまなら少しだけ分かる(きっと分かったとは言えないくらい、ほんの少しだと思う)。

その頃、ぼくのフェイスブックには、セラピーやヒーリング、「引き寄せの法則」といった情報が飛び交っていた。

それによれば、家族の葛藤を解消すれば自由に生きていけるとか、いい気分でい続けることでお金や様々な豊かさが引き寄せられてくる、とあった。

お金を稼ぐことについての情報もあった。

メルマガを配信して顧客にファンになってもらうとか、株や不動産に投資して自分が動かなくても入ってくる収入をつくるとか、たくさんお金を稼いで世界中を飛びまわったり、海外でバカンスをしたりしている人の話などが語られていた。

そうした情報が語る世界と「問題行動」を起こした子どもや親御さんたちの世界(つまり、ぼくのいる児童館がある世界、「福祉」の世界と言い換えてもいい)は、あまりにもかけ離れていて、なんだか感心してしまった。

世界がちぎれそうだ、と思った。

もしかしたら「問題行動」を起こした子どもと家族は、家族の葛藤を解消するワークによって突破口を見出すかもしれない。「引き寄せの法則」を知ることで気持ちが前向きになって、あっという間に問題が消えるかもしれない。

でも、ぼくは「とてもじゃないけど、そんな話はできないな」と思った。
世界が違いすぎて、それはとても場違いに思えた。

そして、そのようにして、「問題行動」の現場にいる人たちが言える範囲の中でしか、打開策は見出されていかないのだ、と気づいた。

どこか遠くに、その問題を解決できる凄腕の外科医がいたとしても、いまはこの場所で、ここにいる人たちが手持ちのカードでやっていくしかない。

そこで出されるカードは、その場で言えることに限られていて、でも、その影響で子どもたちの人生が変わっていく。

子どもたちにとって「社会」というのは、限られた手持ちのカードを切っている、ぼくたち大人のことなのだ。

ぼくが「社会」なのだ。
「社会貢献」というのは、ぼくがどんな人で、なにをするかということと同義なのだ。

その事実は、ぼくにとって、実に心もとない、頼りないことに思えた。

だから、ぼくは「救い」のことを考えた。

「救いがあるなあ……」と思わず口にするとき、ひとは特定の個人ではなく、その場面に起きた、人知を超えた力や流れに感動しているのだと思う。

とても解決できそうにない手持ちのカードだけで、なんとかなってしまう。まともに考えたら不可能に思えることに、目鼻がついていき、やがて好転していく。

そういう展開があることを、ぼくは経験してきたので知っている。
そして、その「救い」は、現場の状況に合わせたかたちでしか起こらないということも。

家族の葛藤を解消するワークや引き寄せの法則やお金を稼ぐ方法は、きっと、その「救い」のかたちに見合うときにしか採用されないのだと思う。出会えるときにしか出会えない、というか。

ぼくは40歳をこえ、もうすぐ41歳になる。

いろんなところに行ったし、いろんな人に会った。
そしてわかったことは、一人ひとり、あまりにも違う人生を生きているということだ。その距離は近づくのかと思いきや、年々遠ざかっているように感じられる。

だれかに出あうたびに、ぼくの世界は餅のように両側から引っぱられて、ちぎれそうになる。へんかもしれないけれど、そのことに「うわぁ……」と感心してしまう。

「救い」はたぶん、そんなとてもじゃないけど人には収拾がつけられない世界の緩衝材として、人知れず存在しているのだと思う。

そして、結局のところ、ぼくはいつだって、頼りない手持ちのカードでいくしかないのだ(!)。

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