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"ソーシャル" をやめてみる。

今日は、行きつけのお茶屋さんで長い時間すごした。
お酒を飲む人が「行きつけ」と言う時の親密な感じにあこがれていたのだけれど、お酒を飲まないぼくら夫婦にそういう場所はない。ところが、ひょんなことから日本茶を飲ませるのに居酒屋みたいなお店を見つけて、常連になり、店員さんたちと妙に親しくなって「行きつけ」ができた。うれしい。

今日はこのお茶屋さんで、他のお客さんも交えておしゃべりした。普段は他のお客さんと会話するなんてまずないのだけれど、この日は自然に打ち解けて、そうなっていった。「そうそう、これが行きつけだ」と思った。

そこでなぜか SNS の話をした。フェイスブック、ツイッター、インスタグラムにこの note。それぞれがいろんなサービスを使っていたのだけれど、面白かったのは、みなが「他の人に見られると恥ずかしい」と思っていたこと。

”ソーシャル” ネットワークに公開しているのだから、基本的に誰に読まれてもいいはずなのに、新しく知り合った人に読まれると恥ずかしい。僕も「ブログ読みました」と言われて照れくさかったし、過去の投稿を消すなんて人もいて面白かった。

それで思ったのだけれど、ぼくらが欲しいものは ”ソーシャル” なネットワークではないのだと思う。

西村佳哲さんという人が「私」と「公」のあいだに「共」という領域があるという話をしているけれど、

ソーシャル、つまり「公」の領域の前に「共」のところで、つるみたい。「公」開ではなくて「共」開したい。そんな気持ちが人にはあるんじゃないか。僕にはある。

それで、アカウントを持っている SNS の、顔が見えない「公」の人のフォローを外してみることにした。

はじめてみると「自営業の告知」とか「見識を広げる」とか「自分を高める」みたいな目的で、顔の見えない「公」の人との、つながりとも言えないつながりをたくさん持っていたことに気づく。

でも断然面白いし、読みたいのは、顔のみえる「共」の人の近況だ。
それは「公」の人の発信よりもずっと豊かな厚みをもって伝わってくる。

作業を終えると、タイムラインが断捨離したかのようにスッキリした。

もちろん「公」に向けた質の高い投稿をしている人もいる。読み応えのある記事だってある。それは価値あることだし、SNS 各社のサービスも基本的にそういう「公」をサポートするようにできている。でも、見たいと思っていないプロモーションや誰かが「いいね」した投稿まで見たいとは思わない。

思えば、ぼくら夫婦が「行きつけ」に喜んでいるのも「公」だと思っていたお店が「私」の方に近づいてきてくれたからだ。それはちょうど「共」の領域で、そこでは「公」でも「私」でも起きないことが起きる。それはとても人間味があって豊かだ。そして、つくろうと思ってできるものでもない。

SNS各社が "ソーシャル" したいからといって、ユーザーがそれに合わせる必要はぜんぜんないんだよな、と思う。「私」の外に「共」があって、そこが豊かに膨らんで「公」と言える規模になる。そういう拡がり方がいいなと思うし、いい時の SNS ってそうだったよなーなんて話も今日はしたっけな。

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