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他人事とは思えない。

北海道、浦河『べてるの家』の向谷地生良さんは、その発言がいろんなところで記事になっていて、読むたびに心のどこかに火が付く。

最近読んだこの記事もそうだった。

たとえば、「トンコロガス」という(おそらく本人にしか分からない)ガスから逃げるため、長年、路上生活を送ってきた年配の女性と、向谷地さんはこんなふうに関わっている。

向谷地 一応“その方面の専門家”だということにして「私はトンコロガス問題の研究をしている者です。いろいろ教えてください」と言ったら、彼女はいろいろ話しててくれました。聞いていくうちに私は、この社会を覆っている一種の閉塞感のようなものを、彼女はトンコロガスと表現しているんじゃないかと思ったんですね。

(略)

彼女には、私たちに見えないものが見えたり聴こえたりするのかもしれませんが、その世界から逃走しようとするとホームレスにならざるを得ないわけです。その人たちの苦労がこの社会を映す鏡のようになって、私たちは彼女から学ぶことができる。そういう循環をつくりだせる大事な人材だなって思いましたね。

(略)私たちがいま当事者研究という活動をしているのは、病気の人を治すというよりは、むしろ彼ら・彼女らの経験を社会に発信することで、この世界に違った種類の言葉を送り込んでいくということだと思っているんですね。

他の人には見えないものが見えたり聴こえたりする。
その世界から逃走しようとすると、ホームレスにならざるをえない。

なんだか他人事には思えない感じがしながら読んだ。

この話の前段、向谷地さんはこんな話をしていた。

向谷地 統合失調症の人が聞いている幻聴は、彼らの属する社会のローカルカルチャーに影響を受けているというのです。たとえば、アメリカの患者さんには「死ね」とか「殺せ」という幻聴が多いけど、安定した共同体がそれなりにあるインドやガーナの人たちは、褒め言葉とか肯定的な幻聴を聞くことが多いそうなんです。

雨宮 えー! 幻聴が褒めてくれるなんて、いいですね。

向谷地 それは私たちも経験的に実感しているんですよ。最初は「死ね」だった幻聴さんが、コミュニティとつながることで変わってきて、しだいにポジティブな内容に変わる。(略)つまり、統合失調症の人たちの聞く声というのは、その社会の現実を反映している可能性がある。

ある種の痛みを抱えた子どもたちや感情的に強く反応した人たち、そして自分自身も追いつめられたときに、こうした言葉を使うなと思いながら読んだ。

そして、このエピソードは、区役所に迷惑電話を延々かけてくる、ある青年の話につながっていく。

「面白いことない、つまんない」から、世の中の不平不満や不公平感、健康面でのつらさ、それが飛躍して無差別殺人や安楽死へ。

こういう理屈の繋げ方をする子どもたちに、僕は会ったことがあると思った。

その彼がやがて「そしたら俺、働きます」に変わる。
そこにあったのは、一日40分ほどの、毎日の対話だった。

向谷地 その後も毎日のように電話で話していたら、去年の秋くらいに、急に「俺、寂しいんだ」って言うんですよ。

雨宮 「寂しい」とか「つらい」というのを、無差別殺人とかランチに言い換えていたってことですね。

向谷地 そうそう。

無差別殺人が「寂しい」に変わっていくこの感じ。
これは、僕たち夫婦が喧嘩をしたときに似ている気がした。

言い過ぎているとき、やり過ぎているときに「聞いてくれる」「受け止めてくれる」人がいること。

それは表現を明らかにマイルドなものにしていく。
和解もこのときにこそ、可能になる。

人間はそもそも、社会や世界の中に飛び交う言葉や雰囲気、文化を取り込みながら自分をつくっている。それはたとえば、メルロ・ポンティという哲学者なども言ってきたのですが、それが実証的に裏づけられたのではないかと思っています。

もしかしたら、ある種の繊細さをもった人たちは、世界の言葉や雰囲気、文化の負の面をその身に宿してしまうのかもしれない。

鎮まらない魂の依り代になるように。

そういう人に対して、向谷地さんのような「聞いてくれる」存在が一人いることは、その人の先行きのみならず、社会の先行きをも変えていくことになると思う。

そしてなにより、これらの話のユニークさったらない。
聖人君子の道徳ではなく、なんだか落語のように読めてしまうのが、向谷地さんの体験談の魅力だし、そこに救いがあるような気がしている。

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