阿修羅2

阿修羅とは、私だ。

ぼくの中には「たのしい自分」がいる。
その自分は、誰かが面白いことを言うと、内側のどこかからぴょんと飛び出して、キャッキャとはしゃぐ。

そういう「たのしい自分」でいることが、ぼくはすきだ。
その自分でいられたときは、スポーツの後みたいにカラダがホカホカする。

でも、そういられるかどうかは、自分の力ではどうすることもできない。
そのことに気づいたのは、30代の頃だ。

ぼくは、基本的に誰からも好かれたいと思って生きてきた。
でも、誰とでもそうできるわけではなかったし、同じ人と話していても「たのしい自分」でいられるときとそうでないときがあることに気がついた。

そして観察の結果、「たのしい自分」は、あくまでもそこにいる人とそこに流れる会話によって生まれる産物なのだ、と思うに至った。

反対に「いやな自分」というやつもいる。
この自分は我ながら「こいつ、やな奴だな」と思うようなことを言ったり、やったりする。

冷淡で、皮肉屋で、意地悪。時には暴力的。
そういう自分にはお目にかかりたくないが、でも、たまーに出てくる。

そういう「いやな自分」もまた、そこにいる人とそこに流れる会話によってぼくの中から飛び出してくる。この自分になった後は、後味が悪くて打ち消したくなるが、いまだかつてうまく消せたことがない。

そう思うと「ぼく」という人の見え方や評価は「たのしい自分」を経験した人と「いやな自分」を経験した人とでまったく違ってくる。

しかも、ぼくの性格は、この二つだけじゃない。
「まじめな自分」も「ふざけている自分」もいるし、「働き者の自分」と「怠け者の自分」だっている。

それぞれの時期の、それぞれの自分を経験した人は、ぼくのことを「生真面目」「ユニーク」「勤勉」「だらしない」などと思ってきたことだろう。

誰からも好かれたいぼくとしては、それを「いい人」一色にしたいと努力してきたが、人生41年目の今日、その試みは失敗を繰り返し「それは不可能ではないか」と思いはじめている。

だって、きりがないから。

そして、その全ての存在を知るぼくには、自分が「阿修羅」のように思えている。

笑い、怒り、悲しみ。
三つの顔をクルクルと回転させながら、しかしそのどれもが自分である阿修羅のように、ぼくは時によって人によって人格を変え、あなたの前に存在する。

「今日のぼくは、ぼくとあなたの創作物だ」と言ったら、無責任だろうか。でも、そんな気がしてしまう。

そう思うと「あの人は〇〇な人だ」という人物評価がいかに一致しづらいかもわかってくる。

ぼくだけでなく、きっと誰もが阿修羅なのだ。
本当のその人は、本人にしかわからない。

で、ややこしい話をしてきたけれど、今日、ぼくが「いいやつ」でいられたとしたら、きっとあなたのおかげだ。そういうあなたがいてくれて、本当にありがたい、と、ぼくはひそかに思っている。

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