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聞かれることが人にもたらすこと。

こちらのページで紹介されていた『こころの対話 25のルール』。

今日、電車の中で読んでいたらすごくよくて、気になったところを次々に抜き書きしている。

P.20
 なぜなら、聞かれないということは、単に自分の話を聞かれていないだけでなく、話している自分の存在そのものを否定されたこととして認識されるからです。逆に言えば、聞かないということは、その人の存在を否定することになります。たとえ、あなたにその気がなくとも。
P.23
 始まりは、話を聞いてもらえないことでした。しかし、それが繰り返されると、だれでも、自分の存在が受け入れられず、否定されているように感じてしまうのです。そして、常に、心の奥底で、「自分はここにいてもいいんだろうか?」という不安をいだいて生きていくことになってしまうのです。
P.32
 自分は聞かれないという経験は、辛く耐えがたいものです。だから、いつしかわたしたちは、人と向かい合うとまず、この人はだいじょうぶだろうか、わたしを傷つけないだろうか、あの苦痛を味わわなくてすむようにしなければならないと、「警戒」するのです。
 そうして、相手の敵意を感じないでいられるように、自分の苦痛を感じないでいられるようにと、できるだけ、感じないようにすることで身を守ろうとするのです(このとき、相手の敵意と同時に好意も、自分の苦痛と同時に喜びも、感じ取ることを放棄してしまうのですが)。
 こうして、人との間にも、自分の感情や欲求との間にも溝をつくり、分離、分裂し孤立していきます。
P.82
 わたしたちは、外見から受け取る印象よりもずっとおびえています。もちろん、それを隠したり感じなくしてしまっている人もいますが、ほとんどの人が、人にどう思われているか? 非常識な振る舞いをしていないか? と、常に、自分が孤立してしまうことにおびえ、不安を感じています。表面上は和やかにことばを交わしていたとしても、どこか「警戒心」をもってコミュニケーションを交わしています。
 ところが「不安」が強くなるほど、コミュニケーションは難しいものになります。「警戒心」というフィルターを通して相手とコミュニケーションをもつわけですから、当然、それは自分にだけでなく、相手にも影響していきます。
 あなたの「警戒心」が相手の「警戒心」を刺激するのです。すると、相手の「警戒心」がまたあなたの「警戒心」を煽り……こうして、「警戒心」とそれに導かれた「不安」が、わたしたちの聞く能力を低下させていくのです。関わりが損なわれることに対する危機感や警戒心が、かえって関わりを閉ざす結果となってしまうのです。

僕はある年齢をこえた頃から人との間に壁を感じるようになり、打ち解けるのが難しくなった。人に会うときにちょっとこわさを感じるようにもなった。

子どもの頃はなかったのに、と不思議に思っていたのだけれど、それはここでいう「警戒心」や「不安」が蓄積されていったからなんだろうと納得できた。

以下の指摘も「なるほど」と思わされる。

P.63
 考えてみれば、わたしたちが受けてきた教育とは、いまの完全さを知るためのものではなく、努力を重ねて完全になっていくという認識をわたしたちに植え付けるためのものであったように思います。
 もちろん、教育が「自己否定」のすべての原因だとは思いませんが、育ってくる過程の中で、いまの自分のすばらしさやいまの自分の完全さを実感するよりは、いまの自分のいたらなさや未熟さを経験するときのほうが多かったように思うのです。
P.64
 「自己否定」が強くなればなるほど、少しでもそれを刺激するものに対して過敏になります。
 つまり、相手の何気ないことばにも、自分を否定されたような感情をいだきやすくなります。「自己否定」というフィルターを通して相手の話を聞くわけですから、相手のことばをそのままには聞けなくなるのです。
 どちらかというと、相手の言うことに懐疑的になるでしょうし、コミュニケーションを交わしながら、内容とは別に、なんとか「自己否定」をくつがえそうと、そのコミュニケーションの裏で、相手に自分を認めさせたり、相手から同情を引いたりといった形で、相手をコントロールし、自分を肯定させようという企てが働いてしまいがちです。
 それらの無意識の企てが、コミュニケーションを複雑にし、コミュニケーションを交わすことから生まれるはずの満足感をわたしたちから奪っていくのです。

「聞かれない」痛みと「自己否定」を刺激され続ける環境で、人と関わることが「自分を認めさせるための手段」に成り下がり、相手のことばをきくことも、コミュニケーションを交わすことの喜びからも遠ざかってしまう。

そのまんま自分自身に起きていたことだし、関わってきたあの人やあの人の顔も思い浮かぶ。

そんな経験を経て、僕はいま「きくこと」に関わる仕事をしている。
歌うことや曲をつくることを介しているけれど、根っこのところで大事にしているのは「きくこと」「きかれること」だ。

そして『listen.』というかたちで、毎月、何人かのお話をうかがっている。

僕は30代のはじめに会社員をやめた。そして、それまで興味がなかった「きくこと」に夢中になった。当時「聞かれないこと」にあんなに過敏になっていたのは、その痛みや「自己否定」を刺激しあうコミュニケーションをしてきた経験を身体が知っていたからかもしれない。

P.53
 わたしたちの日常会話は、一般的不協和音と呼ばれています。一見、話が噛み合っているようでいて、じつはずれている。きれいな和音にはなっていない。というのも、人は、同じことばを遣っていても、それぞれ違うことを思っているからです。

僕たちが「ふつう」だと思っている会話は、不協和音だったのだ。

それがきれいな和音になったときのうれしさ、心地よさを知ってしまって以来、僕はそのとりこになって、結果それが生業になってしまったのであった。

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