伝承とはなにか。
与一、鏑(かぶら)を取つてつがひ、
よつ引ぴいて、ひやうど放つ
(『平家物語』より)
昨日、夜の児童館で行われる「学びタイム」で、弓道をさせてもらった。
「学びタイム」は児童館が閉館した後、中高生と「学び」というテーマでいろんなことをして過ごす時間だ。
映画を観たり、おしゃれについて語ったり、絵本の読み聞かせをしたり。
以前、火がついた「いじめ」についての激論もこの時間に起きた出来事だった。
で、この日は弓道である。
普段、子育て支援の仕事を手伝ってくれているスタッフさんが来て、日本の弓と海外のアーチェリーの違いについて話してくれた。
印象的だったのは、海外に比べて相対的に長い日本の弓は「様式美」が込められているため、長さを変えられなかったという話。
その様式美を、僕たちは実際に目の当たりにすることになる。
ひと通り話を聞き終えた後、僕たちは体育館に移動して、スタッフさんが弓を射るのを観た。
彼女は、道着の上に胸当てや小手のようなものをつけて正装すると、的に一礼。それから、弓の前に相撲の蹲踞(そんきょ)のような姿勢で座った。
体の内側のどこかに意識を集中して、じっと静かになった後、すっと立ち上がる。
いつの間にか、わーわーとしゃべっていた中高生たちが、沈黙していた。
しん、とした時間の中で、スタッフさんは別人になっていた。
女性なのに、武骨な武士のような表情に変わり、的を睨むように一瞥した後、弓をつがえる。
それから腕を高く上げ、前後にぎりぎりと引き絞った後、
ひゅん!
と矢が飛んで、ベニア板に突き刺さった。
わっ。
という声が、そこここから漏れた。
板を見にいくと見事に貫通している。
なんという、緊張と弛緩。
はりつめた弓の ふるえる弦よ
(『もののけ姫』より)
とは、あの弓が放たれる前のとてつもない緊迫感のことを言っていたのか。
ここに参加する子に限らず、中高生たちはいつもしっちゃかめっちゃかで、にぎやかにワーワー騒いでいるのだけれど、この瞬間だけは水面に波紋も立たないくらい静まりかえっていた。
スタッフさんの所作が、全員の気勢を制したのだと思う。
それから、僕たちも練習用の器具のようなもので弓をつがえる動作をやらせてもらった。
驚いたことに、どんな人でも弓をつがえた瞬間、すっと姿勢がよくなり、そこに凛々しさや勇ましさが立ち現れた。
普段、へなへなして頼りなく見える男の子たちでさえそうだった。彼らの中に「武士」が見えた瞬間は、本当に美しくて感動的だった(それは弓を放つと消えてしまったのだけれど)。
僕が開いている歌のワークショップ『魂うた®︎』でもそういう瞬間がある。
「歌う」という行為をしている最中に、きらっと輝くようにその人を美しいものが通り抜ける。
本質はたぶん、いつだって人の中に眠っているのだ。
矢も入っていない、ただのゴムの練習器具なのにスタッフさんに教わったとおりに弓をつがえるだけで、それは現れた。
「猛きものもついにはほろびぬ」と『平家物語』では詠われているが、本当の「猛きもの」は滅びていないのかもしれない。
それは人が滅びても所作の中に宿り、人から人へと伝承されながら生き永らえている。
これは、ニュージーランドの先住民族マオリが闘いの前に踊る儀式、ハカ。
僕たちの日常では(幸いにして)こうしたスポーツぐらいでしか「闘い」を見ることはないけれど、ハカは人から人へと伝えられ、男たちがエネルギーを高める儀式として残っている。
そんなふうにしてエネルギー、あるいは「魂」は所作の中に生き残り続ける。
いつもスマホゲームばかりやったり、「モー娘。が好き」なんて言ったりしている中高生が、弓をつがえた瞬間にあんなふうに武士の魂と一体化するなんて、誰が思うだろうか。
滅びてないんだなあ、まったく。
このところ、僕の女友達があっちでもこっちでも舞をはじめている。
不思議に思っていたのだけれど、あれも動きの中に宿る魂を身体を通して蘇らせようとしているのかもしれない。
そして、それは男にとっても必要だと思う。
ハカを観ていると、僕はなんだか震えてきてしまうのだけれど、それは僕の中の「魂」がうずいているからなんだろう。
なにも滅びてなんかない。
大事なものは、人が滅びても消えることなく、所作の中に眠っている。
そうした先人たちの贈り物に気づくことができるかどうかは、僕たちにかかっているのだ。
それができてはじめて、伝承は起こる。
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