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生きてる、ってなんだろう。

おとといの晩から昨日の朝にかけて、障がいをもつ人の宿泊施設で宿直バイトをした。そこに寝たきりの利用者さんがきた。

彼とははじめて会った。ほかの利用者さんとは大きく違っていた。歩くこともしゃべることも、身体を動かすことさえできない。そういう人のことを「重度の障がいがある」というが「重度」とはそういうことかと知った気がする。

彼は車からヘルパーさんに抱きかかえられて部屋に入ってきた。身体が動かせないので、そのあとはずっとふとんに寝たまんまだった。首を横にしてDVDの『トイストーリー4』を観ながら、時々嬉しそうに笑ったり声をあげたりしていた。彼に話しかけて「うー」とか「あー」とか笑顔が返ってくると、なんだか親しい気持ちになった。

先輩のヘルパーさんの話では、彼は二十歳をこえているという(そういえば、障がいをもつ人たちの年齢って全くわからない)。この状態で二十年以上生きているのか、と思った。

彼は他者がいないと生きていけない。それは僕らが普段つかう意味よりずっと切実だ。誰かがいないと食べることも水を飲むこともできないのだから。

だから彼が二十歳をこえているということは、二十年以上にわたって彼の「生きる」を支え、世話してきた人たちがいるということを意味する。彼の身のまわりの世話は家族だけでは到底できないはずだから、確実にかなりの数の他者がかかわっている。

「生きる」ことを支える仕事。そんなすごい仕事ってあるだろうか。
そしてそれは、たぶん無給かそれに近い薄給でなされてきたのだ。

僕らが日常で悩むようなこと(たとえば「何をして稼いだらいいのか」といった現実的な悩み)は彼の世界には存在しない。おそらくこの先も一生現れることはない。

しかし、それでも彼は生きてゆく。誰かが彼のいのちをつなぐからだ。

僕らは時々「この先、生きていけるんだろうか」と悩むことがあるけれど、彼はそうした問いが成り立たないところに存在しているように思えた。

そして、彼がわははと笑った時、花がひらくのを見たようなうれしさがあった。

僕とは違う、想像もつかないようなところに、彼の生きるよろこびがある。そんな僕らがこの世界を分かち合って暮らしている。

生きてる、ってなんだろう。

それはどうも僕が考えているような狭いものではないらしい。

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