楽園かと。
今日の僕は、障がい児のデイサービスにいた。
障がいをもつ人のショートステイに続いて、二つ目の障がい関係の施設。その初出勤だった。
ここにはひょんなことから関わることになった。
2020年になってすぐの頃、何年かに一度しか連絡をとらない福祉の専門学校の先生から紹介があったのだ。
すでに仕事はあったけれど、この唐突な連絡に縁を感じて、今日に至った。
はじめて会った「障がい児」と呼ばれる子どもたちは、キラキラだった。児童館でも子どもたちに会っていたけれど、二割増しくらいに光っていた。
「知恵」の毒がそれほど回っていないからだろうか、ハチャメチャをやっていても、動きが素直で気持ちがいい。そして目がとてつもなくきれいなのだ。
中でも一人、自閉と思われる発語のない子がいた。
彼はいつも夢見るような目をして、僕らと意思疎通はほとんど図れない。けれど、なんだかとても幸せそう。
帰宅が迫ると、彼は天使のように手を羽ばたかせて飛び跳ねていた。見ていると、僕もなんだかうれしくなった。もしかしたら、彼の目が夢見がちなのは、まだ天国に住んでいるせいかもしれないと思った。
あとしびれたのは、自前のギターを抱えて、子どもたちの前で唄ったとき。
「なんか歌ってほしい曲はある?」と聞くと、最初は「うみ」とか「おにのパンツ」とか童謡が続いたが、途中で『ボヘミアンラプソディ』をリクエストされた。
ええ、唄いましたよ。弾き語りで。
いろいろ唄ったけれど、子どもたちの脳裏に一番残ったのは、その時の「ママ〜」だったようで、その後しばらくかわいい声の「ママ〜」がこだましていた。
そんな体験をした今日、ちょうどこの記事がSNSで流れてきた。
確かに今日いっしょにギターを触っていた小学生の男の子は突然クラシックの『天国と地獄』のメロディーをかなりの長尺で唄っていた。あれも音楽の才の現れだったのかもしれない。
社会的周縁に存在し、自然界の中で自分たちがどう生きていくかに思いを巡らす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物がいる——前者こそが自閉症者であることは、改めて指摘するまでもないだろう。
先史時代、我々の祖先が狩猟採集に依存した生活を送っていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」に長けていた存在と、社交に長けた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献を果たしたと考えられるのだ。
僕は障がいをもつ人を「ナチュラルズ」と呼んでいるのだけれど、あの伸びやかさ、いっしょにいる時の居心地のよさは、きっと彼らが天然自然に属する存在だからなんだろうな。
この仕事は早朝にバイトした後の勤務なので、体力的にきついのだけれど、気づいたら子どもたちに「またね」と言ってしまっている自分がいた。
続けるんだろうなぁ、これは。
また戻りたいもんな、あの楽園みたいな時間に。
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