イーヨー

意味がわかれば。

ここしばらく、気持ちだけでなく、体感的にも落ち込んでどんよりと沈んだ感じがつきまとっていた。

くまのプーさんに登場するイーヨーが、心の中に住み着いて、ため息をついているような感じ。

周期的な心身の収縮だろうと思っていたけれど、けっこう長く続いている。

そんなイーヨー的な重さを感じながら、先日、奥さんと話をしていたら、奥さんが僕といないときにとっている行動が、その重さとつながっていることが分かって驚いた。

なぜ分かったかというと、それを指摘したとき、僕の重さがふっと消え、奥さんまでもがラクになったから。いままで取りついていた重みが消えて「ああ、これが元のおれだ」という感覚が戻ってくる。そういう体感は信用できた。

私が学校へ行かない子供に会っていても、ただ、行かなかった子が行ったというだけではなくて、その背後にある母なるものの存在を感じる場合、私がその人に会っているということに、私自身にとってもはっきり意味があるわけです。

つまり、学校へ行っていないというつまらない人を、私のような健康な人が何とか引き上げて、学校へ連れていってあげるというような意味じゃなくて、中学生としてあなたも日本の母なるものと格闘しているんですか、わたしもしているんです。格闘のレベルなり、格闘の質なりは違うけれども。

そう考えると、私はその人にお会いしていることの意味が非常にはっきりする。
(河合隼雄『心の最終講義』より引用)

と、河合先生は言っているけれど、この日の奥さんとの会話は、それに似ていた。

落ち込んでいる僕の話を奥さんが聞いてくれるところからスタートしたはずが、見えないところでの奥さんの行動が明らかになるにつれて立場が変わっていき、最後には二人ともがラクになった。

その落ち込みは、いろんな日常の例を引きながら「ひとりぼっちだ」「生きている意味がない」「存在が認められていない」というようなことを言っていた。

それは当初、僕個人のものに思えていたけれど、実は奥さんが格闘していることでもあったのだと思う。

こんなふうに、夫婦であれ、仕事相手であれ、誰かと人間関係を築くとき、当初想定した立場を超えた「出会いの意味」が現れることがある。

売り手と買い手だったはずなのに、いつの間にかひっくり返っている、みたいな過程を経て、新しい立場と責任がわかると、人はラクになる。

この意味がわかるということは、人間にとってすごく大事なことじゃないでしょうか。意味がわかるかわからないかで、ほんとうに違う。わけのわからない仕事を長続きさせることは非常に難しいです。意味がわかってからやるわけですね。(同上)

最近、僕の仕事や人間関係は、この「意味を明らかにする」ところからはじまることが多い。

「あなたといま、こうして時間を過ごしているのは、注文をしてくれたからということになっているけれど、実際にはどんな意味があるのか。」

ここがクリアになると、仕事も関係も一気に深まる。

いま、同じ趣旨で、自分のしていることの意味がわからなくなっている。
ちょっと前までは疑いなく進められたことに「ちょっと待てよ」とブレーキがかかっている。

これは、なんだろう。

もしかしたら、もっと新しい「わかる」がやってくる前夜なのかもしれない。そうだといいなと思いながら、秋晴れの空をなんとなく冴えない気持ちで眺めている。

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