人が語ることの光。
昨日、光ばかり追っているうちに自分の中にたまる毒について書いた。
似たようなことを前にも書いたな、と思って、探したところ、これまた、しいたけ.さんに触発されての記事だった。
ただ、ここで僕の意見を言うと、今の日本社会って「陰と陽における、陽」、そして「ハレとケにおける、ハレ」の呪いに少しかかっているような気がするのです。
僕が占いの現場で人を見てきて、すごく疲れた状態にある人って「明るく元気で、自分の意見をハッキリ言える」という人たちです。
「誰かの前で明るくなければいけない」、「自分が投稿するSNSは幸せにあふれていなければいけない」、「『私なりに今の〇〇という流れについてはこう思う』など、自分の意見を持っていなければいけない」……。
陽って、ハッタリだから、ある程度気合いを入れたらできるものです。つまり、陽とかプラス、そしてポジティブな自分は意識をすれば、ある程度虚像であったとしてもつくり出せるものなのです。
この陽やハレの呪いの中にい続けると、本当に疲れる。
人には影もあるからだ。
明るく明るく。
そんなふうに光量を強くすれば、白飛びして見えづらくなるけれど、影がなくなるわけではない。それどころか、その像は陰影を欠いた薄っぺらいものになってしまう。
僕が昨日「けっ」と感じると書いた会社や広告への嫌悪感は、この陰影のなさに対するものだったのだと思う。
そうしてたまった毒を、人はいろんなかたちで排出する。
僕にとっては、夫婦げんかもその一つのようだ。
奥さんに対して「言い過ぎる」ことで、僕は自分を取り戻す。逆もまたしかり。そんなことしないに越したことはないのだけれど、これがなかったらもっとやばかったかもな、とも思う。
僕は人の話をきくことを仕事にしているけれど、これも「毒出し」の効果があるのかもしれない。
昨日、この『listen.』でお二人の話を聞いたけれど、どちらもとてもよかった。
よかったというのは、明るい話だったということでも、役に立つ話だったというでもなく、そこにある影も含めて豊かだった、ということ。
『listen.』では「これを話してください」というテーマがない。僕から質問することもない。ただ、その時、口から出てくる言葉をそのままたどっていく。話すことがないときは、いっしょに沈黙する。
そうすることで、話は自然な陰影を帯びる。影のつき方は人それぞれだけれど、その人ならではのグラデーションを描く。
この陰影がリアリティにつながる。これがなんとも言えずいい。その人にしか体験できない世界のリアリティだからだ。
そして、その話の中でふっと現れてくる「陽」は、本当に素敵なものとして信じられる。
本当の自分って、僕は自分で努力をして、研鑽を重ねて、それでスポットライトを浴びる瞬間に出てくるものであるとはどうしても思えないのです。
それよりも、なんとなく会話をしていて「この人はもしかしたら気が合うな」と思って、会話が終わる間際に「あれ、ちょっとこれ全然関係ないかもしれないけど話していいですか? 実は……」と、そうやってオチも着地もない話を話す瞬間にこそ「本来の自分」って出てくるものなのです。
「相手を信頼して、委ねる」。そこに武装も、その場のコントロールもない。そういう瞬間に出会ったときの自分や相手って、何か知らないけど「充実感」とか「幸せ感」を感じている。「予定された話をしなくてよかった幸せ」をお互いに感じ取っている。
しいたけ.さんがこんなふうに語るのと似たものを僕は人の話をきくときに感じているのだと思う。
僕自身が語らなくても、それは僕にとっての「毒出し」で栄養なのだ。
そして、普段の会話より『listen.』の栄養価が高く感じるのは、未二観の聞き方でただただ言葉をたどることで「いい」とか「悪い」といった判断の網の向こうにいけるからだろう。
こうした判断の網を「準拠枠」と呼ぶそうだけれど、その枠が外れることで見えてくるリアリティがある。それがなんとも言えずいい。
いま、こうして文章を書いているとき、僕はその準拠枠で書いたり消したりしている。だから、自然な語りのようなリアリティは現れない。そのことが少し退屈になることもある。
だから、やっぱり「人が語ること」ってすごいんだなあと思う。
能力なんてなくても、みーんな、それやってるんだから。
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