仕事を好きになろうとした20年。
僕が大学を卒業して新入社員として働き始めたのは、2000年4月。だから次の4月で社会人としての成人を迎える。「働く」「稼ぐ」「仕事」といったことと20年付き合ってきたわけだ。
20年、結局「働く」も「稼ぐ」も「仕事」もあまり好きになれないまま過ぎたなあ、と思う。どこかで和解する機会があるかと思っていたが、宿題を嫌がるのび太のように、いまも「仕事だ」と思うと気が重くなる。
もっとも「仕事」の中身はずいぶん様変わりした。いやだと思うことは大幅に減り、やってもいやじゃないことが増えた(20年にわたりそう仕向けてきたのだ)。自営の㐧二音楽室にしても、アルバイトの品出しや障がいをもつ人といることもそれ自体のストレスは少ない。
それでも「仕事だ」と思うと気が重くなる。なぜだろうなと思う。
働くことは人間にとって食べることや寝ることと同じ地位を占めている。好きとか嫌いではなく「生きるためにすること」という意味で。里芋が嫌いだから食べないとか、興味がないからサッカーは観ないというように「しない」ことを選ぶのがとても難しい。そのことにやや不自由さを感じる。
それに、食べることや寝ることには「おいしい」「気持ちいい」といった快楽が備わっているのに、働くことには苦痛が多い。神様が設定をミスったのだろうか。食べることや寝ることに選べないなりの旨味があることを思うと、働くことの選べなさは奴隷っぽさがある。働くことによって人の力が奪われていくような感じさえしてしまう(多分に被害妄想も入っているるだろうが、なんの被害だというのだろう)。
「それが好きな人だけやればいいじゃん」というのは、僕の心の中の口ぐせだ。僕にとって納得のいく判断基準でもある。好きな人と嫌いな人がいるものが生きることに欠かせないのはなんだか不公平だから、働くことは好きな人だけがやればいいのにと思っている。20年そう思い続けてきたが、そうはならなかった(当たり前だけれど)。
以上は「仕事」「稼ぐこと」「働くこと」を20年好きになろうとした男のぼやきである。好きになれたらもっといい仕事ができただろうし、豊かにだってなれただろう。そうなれたらと何度も夢見た。それでも、やっぱり好きとは言えないままでいる。
仕事が里芋のように箸で選り分けて食べないことにしたり、好きな人に分けて食べてもらえるようなものだったら。あるいは、なにかのきっかけで仕事を好きになれたら。
仕事の中身も働き方も環境も次々に変えながら、そんなことばっかり考えていた20年だった。心の中の野比のび太が宿題と聞くといつも枕をほうり投げて昼寝をはじめるように、仕事と聞くと逃げたい気持ちがいまでもある。
でも、のび太はなんだかんだ言って不登校にはならないんだよな。
そして僕もなんだかんだ言いながら働くことはやめないのだと思う。
そのあたりの不徹底さが、のび太らしさであり僕らしさである。こんなことを書いたからといって、別になにも変わりゃしない。
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