少年時代

少年時代は終わらない。

昨日の『プリズン・サークル』を観ているときにも思ったことだけれど、

子どもの頃のことって、全然終わってないんだなあと思う。
いくつになっても、その頃の自分は生きていて、いまの自分に影響を与えている。

僕はもっとぶつ切りなんだと思っていた。記憶もだんだん薄れていくし、身体も意識も関心も変わっていくから、過去の自分というのは全くの別人で、脱皮した後のセミの抜け殻みたいにカサカサになって消えていくんだと思っていた。

でも違った。過去の自分は、いまの自分の中にちゃんと息づいて、生きている。

 わたしたちは、子どもの頃から現在まで、過去にいくつもの未完了のコミュニケーションをかかえてきました。そして、その未完了の状態をつくり出す代表が、「聞かれない」ことだったのです。

 自分の投げたボールをだれにも受け取ってもらえないという経験は、その回数に比例して、少しずつ、わたしたちを重くしてきました。そうして、未だに、わたしたちの情緒や行動に影響を与えているのです。

これはいま読んでいる『こころの対話 25のルール』の一節。

過去にあった誰かとのコミュニケーションの未完了を完了させようとする動き。それがいま、別の人と接しているときにも現れてくる。

その未完了があまりにも多い人は、自分のことでいっぱいいっぱいで、相手に触れられないし、いると感じることすらできない。『プリズン・サークル』に登場した受刑者の人たちは、まさにそんな感じだった。

 どこかに自分を置き忘れてきてしまったような気がしました。自分が身近にいる大切な人たちを無視してきたことに思い当たりました。
 自分の存在理由を探したり、自分の存在を証明することばかりに忙しくて、いま、こうして生きていることのすばらしさを感じる暇もない。
 毎日、人と顔を合わせていても、その人に目を向けている時間なんて、数秒もあればいいほうで、ほとんどの時間、終わってしまったことや将来のことを、あれやこれやと考えていたように思ったのです。
(伊藤守『こころの対話 25のルール』P.232)

「加害をした実感がない」「自分だってそれだけのことをされてきた」と語る受刑者たちと似たような未完了を僕らだって抱えている。目の前にいる人を無視して、あれやこれやと別のことばかり考えている。ただ発露のしかたが違っただけで。

でも、相手の話をじっくり聞いて、触れることができたとき、溜まっていた未完了は完了する。

そして、少年時代がうごきだす。

 実際には、明日も必ずその人に会えるという保証はなく、会えたとしても、明日のその人はきょうのその人とは違う。きょうの朝日の光景は、きのうの朝日の光景とは、まったく同じではありえないし、子どもの笑い声だっていつも違う。「いま、ここ」という瞬間は、いまここにしかないのですから。(伊藤守『こころの対話 25のルール』P.229)

僕らは誰だって未完了の過去を抱えている。だから、人に会うというのは、それまで生きてきたすべての年代のその人と会うことでもある。そして同時に、現れては消える「いま、ここ」のその人と会うことでもある。

人の話をじっくりきいていると、よくタイムスリップして過去のいろんな場面に飛ぶけれど、そうして時間を行き来しながら、過去の自分が「いま」に生まれ直そうとしているのかもしれない。

映画『プリズン・サークル』での受刑者たちの変化も、そんな感じだったのかもしれない。どこかで凍っていた少年時代を、もう一度いきいきとしたものとして生き直すために、彼らは思いの丈を語り、聞かれ、涙し、悔やんでいた。

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