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私の母のこと

昭和3年に墨田区の本所で生まれ、昭和20年3月9日の大空襲まで過ごしました。多感な時期を戦時下で過ごした母です。
68歳で亡くなりましたが、今になって、「もっと母の話を聞かせてもらえばよかった。もっとやさしくすればよかった」と思っても後の祭りですね。

亡くなる前の2年間ほど、母がつけていた日記が手元にあります。毎日の日記のほかに、昔話をあれこれと思い出しては書いていました。

母の日記から
南千住から千住大橋を渡り、一本道を来れば草加の松原過ぎれば越谷、春日部と来て、杉戸あたりから横道を入れば利根川はもうすぐ、渡れば茨城に入ります。今は立派な橋がありますが、昔は渡船場から舟に乗って向こう側へ渡りました。
境大橋を渡ると境町、そこから三里ほど入った七重村、寺久と言うところが父の故郷、子供の頃に連れて行ってもらい、田んぼの中に入ることが恐ろしく、田舎の子供たちに笑われたものでした。

何しろ小作人の百姓くらいだったと思いますが、本家はまあまあの構えであったことを今でもはっきりと覚えています。
父の兄が後を継いでいましたが、一寸、山師のところがあり、半農家みたいな家で、庭には炭焼き窯があって、炭出しをしていました。
昭和20年三月九日の大空襲で焼け出された後は、5,6か月位一緒に暮らさせてもらい、大変お世話になりましたが、世話になるのもこれまでと見切りをつけて、岩井町の酒店から小さな家粗末な家でしたが、売ってもらい岩井町での生活が始まりました。

昭和20年8月15日
それは又暑い日であった。
ラジオをかけると玉音放送を行うというアナウンサーの声がいうやいなや、天皇陛下のお言葉が流れてきました。私は心の内で叫びました「やっぱり負けたんだわ」
僅か17,8歳の私にでも敗戦の様子になるのだろうとは、新聞に目を通しているだけに予期せぬ出来事とは思えませんでした。「これからどうして生きて行けるのかしら」と思う気持ちが強くのしかかってきました。母は4番目の子を宿していて、それを叔母に聞かされた時はショックでした。私もこれから出花だというのに、二人で子供を産むじたいになるような、なんとも言いようのない気分と同時に又妹のできる嬉しさはこれなんとも嬉しさで一杯でした。母がいよいよ産気づいた時、私は臆病なものですから逃げ出しました。妹のかよちゃんはちゃんとお手伝いできまして、今でもそれには頭が上がりません。
私の姉妹は皆目が大きいのが特徴ですが、めずらしく一番目は細い女の子でしたが、身長は一番あるようでした。食べ物が不足している時だけに父は帰還兵士で米をたくさん持って帰った人の荷物を熊谷まで運んで、米俵をもらって帰ってきたのを覚えています。毎日仕事をしているほかに夜通し車リヤカーで届けたのです。

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