INFJドアスラムのドアにはきっと窓がついてる

そうしてきっとシャットアウトした相手の様子を窺っているんだ。

昨日の宣言通りゴトー日ではないけど、ゴトー日外伝として更新します。
私の更新は一体どれだけの人が見ているかはわからないので、本当に自己満足でやらせてもらってる(勝手にやってる)わけなんですが、書きたくなった且つ触れたくなったので今に至ります。

INFJドアスラムって、結構私的には最近知った言葉でして…noteで呟いたのがこれを見る限り3年前ですね。この時にこういう自分の中で起こる”それ”に名前がついているんだ!と視界がクリアになった記憶があります。

それこそ若い頃は結構尖ってたというか、なんかしら見た目で「あなたってこうでしょ」と言われる事が多発していたのもあり、何かと反抗していたところはありますが(反抗と言っても大したことはなくそんな事ないですって突っぱねる程度)、ある時からそういう事もあまりしなくなっていって結構自分は怒りっぽいと思っていたのですけれど、それも徐々に減っていってそれって自分が大人になったからだなと考えて納得していた節は正直ありました。
怒りという感情は傲慢というか独りよがりだよなあと感じるようになり、そもそも自分の事を全ての人にきちんと理解してもらうなんて無理だよなあと散々泣きを見てやっと気付いた結果、他人に何かを期待する・求めるというのをやめてからは、あまり怒らなくなっていったんですよね。
それでも何かを期待してしまった自分は完全に捨て切れてはいないので、たまに怒りという感情は生まれてくる事はあるんですが…

私は私で良くて誰に理解してもらえなくても良くてそれは仕方ない事で、出来るならば自分が信頼した人には理解してもらえれば嬉しいけど難しいならそれは無理強いするのはおかしい事だし、◯◯であるべきと決めつけて来ないだけでもある意味私を私として見てもらえてるのだから感謝すべきという考えに落ち着きつつ。
そうすると私が他人に◯◯するべきと押し付ける事は当然しちゃいけないので、しなくなる=自分が感じたままの他人を受け入れるようになるという図式に。
人に対してこの人面白いな好きだな、この人と仲良くなりたいなと直感的に思って関係性を築き始めてから、多少の違和感を感じる事がある。
誰もが完璧なわけではないし当然のように私も他者にそう思われる事だって往々にしてある。ていうか絶対あるしない方がおかしい。寧ろそれが健全なのではと思うくらい。だからその面白いな好きだなと感じたところだけで触れたくて接していくようになる。そうして対人関係って成り立っていくんじゃないかと思うんです。
お互いにとって心地いいなと思えるくらいの好きがある部分で接していくのが、嫌なところを見ないで相手をずっと好きでいられる。…はずなんです。
しかし例えその相手の人がどれだけ社会的に認められている人であっても、どれだけ素晴らしいと言われている人であっても私が直感的に”なんかおかしい”と思うものが払拭されるどころか、その思いはどんどんと膨らんでいく事だってあります。
私と相手の求めるもののベクトルが違った時にそうなりがちな気がしますけど…

正しい例えではないかもしれませんが、
仮に私が和食が好きだとして相手がイタリアンが好きだとする。たまたま私がその日イタリアンな気分でイタ飯屋に行った・もしくは相手が和食が食べたくて和食屋さんに来た、そうしてお互いが知り合ったとして、「「いいよね和食(イタリアン)」」となっている状態の時に会うのがベストだと私は思うんですね。または「「いつも和食(イタリアン)だから今回は中華に挑戦してみようと思うんだけどどう?」」の時とか。
私はしばらくイタリアンはいいやとなっているのに「イタリアンしよ」とずっと押し付けられるのは違うわけですね。ベクトルがおかしいんです。
だからイタリアンの気分の人を誘えばいいのに、要らないと言っている私にイタリアンをさせようとするのがしんどいですし、やんわりと断ったとしても「なんで?じゃあパスタならいけるんじゃない?」とか結局ゴリ押されそうになったりされるのもしんどいですし、「えーじゃあいいよ和食で」みたいに不承不承受け入れてやった風な態度をとられるのも嫌ですし。それら全てが違和感として自分に積もっていくんですよね。
何故イタリアンが好きな相手は和食を好きな私を一生懸命イタリアンに誘うのかと、至極当然の疑問が湧くわけですが相手は(相手にとって)良かれと思って誘ってくるんですよね。ならばせめて私がイタリアンの気分の時にだけ誘ってほしいと思っていても「でも自分はあなた(私)とイタリアンが食べたいし、私にイタリアンの良さを知ってほしいから!」みたいな感じで、こちらの意図をまるで汲まない代わりに自分の意見を押し付けてきたりなんだりして。
そうして(一緒に行ってあげたらいいか…)と最初に存在していた”好き”の気持ちがあるから相手の無理を通してあげていったら、気付いた頃にはイタリアンが嫌いになってアレルギー出ちゃうし見るだけでも吐いちゃうみたいな感じになってた、とかそんな感じです。本当に例えがおかしい。

普段はいつも穏やかに優しく人と接しようと心がけているのですが、気付けば自分は対象の人に声を荒げてしまったり口調が荒くなったりと非常に攻撃的な言動になり、”理想的な自分”からかけ離れた事ばかりをするようになるんです。
そうなってしまっている原因は私だと思う事は1ミリもなく100%全て対象の人のせいだ、と思い込むほどには極度のストレス状態に。
常々冷静でありたいと思っていても自分では何の制御もできないので、その人の前でだけ暴走してしまって行う出来事に自己嫌悪もするし、この状況を強いている(と思い込んでいる)相手に対しても嫌悪が湧くしどうにもこうにも八方塞がりだなと感じてただ消えてしまいたくなる。
そうしてただ”楽になりたい、穏やかに過ごしたい”という気持ちを優先させて、その人との関係を断ち切る判断をせざるを得なくなる。それが私のドアスラム。

ストレス値が正常な時は自分が人に対してこれをしたらこう思うだろうやら、こう言ったら相手はこう感じるだろうという予測をした上での行動(主軸は他人)が当たり前にある自分が、とる行動(主軸は自分)は本当の本当に自分の事だけしか考えないでいるからその行動を選択するのも自分にとっては”正しい”はずなのに、それすらも”間違っている”と思ってしまうほどの判断が分からなくなっている状態で。
そうしてそのストレスの元となるものから離れて、結構長い時間を要してやっといつもの自分に戻っていくという。

そんな前提でのこの記事。
正直もう、わ、わかる〜〜〜〜〜!!ってなってしまって、どうしたらいいのかまごまごしてしまいました。この記事を書かれた和香さんの立場に私がなったのだとしたらコメントしてくれた方が嬉しいのかもしれないけど、でも私は引用してがっつり自分の考えを語りたくてそれを他人様の記事のコメントで披露するものではないというところで書いてます。長い言い訳。

何がわかるかと言うと、先述している程私自身に信じられないくらいのストレスと徒労感を感じさせてくれた相手に無事?ドアスラムを発動して、物理的にも心理的にも距離を離してシャットアウトしたはずなのに、どうしてあの人は今何をしているんだろうかとその人の様子を伺いに行ってしまう自分がいるのだろう…と。
ともすれば、ストレスを感じる原因の”ちょっとおかしいな”を感じる手前辺りの関係性には戻れないだろうか、とまで考えている自分がいる。ということ。

もう二度と関わりたくないし時間も心も割きたくないと思っていたはずなのに、相手から連絡が来た事をなんだか嬉しく感じてしまっている自分もいるのが本当に不思議で仕方ない。
何年もの期間が空いた人もいれば数ヶ月程度の期間しか空いてない人だっているけれど、でもこれだけの時間が空いたのならきっとこの人の違和感はなくなっているかもしれないと、どこかに私がいなくなった事による爪痕を感じたいとも思っている節だってある。
だってそもそも違和感を感じる前は好きだったんだから、(私が感じていた)毒だと思うところが減っていたのならまた以前のように仲良くやれるんじゃないのか、と希望を感じてしまう自分がいる。

本心はずっと仲良くしていたかったのだから仕方ないんでしょうけど、そう考えるとその人が今何をやっているのかなとか色々と探しに行ったりとかしてしまうんですけど、ざざっとあの頃を思い出してしまうんですよね。
たくさんの言葉を飲み込んで思いを踏み躙られて、すごく辛い思いをしたんだったという事を。一瞬でも頭をよぎってしまったら一気に指先が冷えて心が凍ってしまうんです。
そうして、やっぱりこの人とは離れていないとまた同じ目に遭ってしまうと思い直して、連絡をとってみようとほのかに考えていた甘い期待を捨て去るしかなくて、それがなんとも悲しくて悔しくて辛いんです。

強い意志を持って私はこの人をシャットアウトさせたのだから、もう振り返る必要なんてないはずなのに好きがあるから生まれた関係性はどうしたって完璧には割り切れないものなんですかねえ。
それが恋であっても友情であっても人として好きだからこそ関係って始まるはずなのに、好きだから故に離れなくてはならないのって悲しいですよね。
憎いわけではないけども何よりも大事にするものが自分とした結果だから、仕方のない事なんですけど。ドアスラムをした人って相手のことをずっとシャットアウトしたままでいられるんだろうか…?疑問。

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