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「努力」から卒業せよ

「努力」という言葉は便利だ。

例えば、近い将来試験を受ける予定があって、その試験範囲が与えられたとする。
また、その試験を仮に今受けたとすると、合格ラインに達する得点が取れないであろうことが分かっているとする。
このとき、この試験に合格したいなら、何らかの対策を取って試験日までに試験範囲の問題をある程度解ける状態になっていなけらばならない。この「何らかの対策」は今の状態と試験当日までに目指すべき状態の差を把握した上で立てる必要があるし、それが不十分なら、合格できる見込みはあまりない。

ここで、「努力」という言葉を導入すると上のようなことを考える必要はなくなる。

いちいち現状を分析して細かな行動計画を立てる代わりに「努力します」と言えばいいし、仮に望む結果にならなかったとしても「努力したからきっと別のところで報われる」と考えれば、これまでやってきたこととその結果を受け入れることができる。また、「努力する才能」や「努力の方向性」などの派生もある。結果が出る理由、出ない理由をこういった言葉で説明すると何だか納得する。

しかし、便利な言葉で済ませてしまうことには問題もある。現状と目標の差を埋めるために「当然やるべきこと」があるはずなのに、「努力」で済ませているうちに、そのやるべきことが実際のところ何なのか考えなくなってしまう。

高校生あたりまではそれでも困らないかもしれない。学校の先生や塾の講師など、頼まずとも「当然やるべきこと」を示してくれる大人がいるからだ。
ところがそのような大人がいなくなると、「努力」でやってきた人はうまくいかなくなってしまう。「当然やるべきこと」を把握しないまま物事を進めてしまい、それがうまくいかない理由もよくわからない。最初にやるべきことを理解するというステップが抜けていると気づくのは難しいだろう。そんなことは誰からも教わらないからだ。

思うに、人はどこかのタイミングで「努力」という言葉から卒業しないといけないのではないだろうか。

小学生くらいの子供は、サンタクロースが実はいないということを知らされる。これはある意味「欲しいものを無条件で与えてくれる存在」から卒業するための通過儀礼と言える。

これと同じように、「努力」という言葉と決別し「目的を達成するための道筋を無条件で与えてくれる存在」から卒業するための通過儀礼があってもいいのではないだろうか。

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