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安易に「分かって」はいけなかったのかもしれない

アハ体験という言葉が一時期流行ったが、「分かる」という体験はドーパミンの分泌を促し快感をもたらすといわれている。

例えば錯視の画像の「第二の見方」に気づいたときは、確かに気分がよい。

一方で、一度分かってしまうと人はそこで満足してしまう。錯視の例でいえば、第二の見方に気づいた時点でもう第三の見方を探さなくなってしまう。裏を返せば、「分かる」ことをトリガーにして思考をやめてしまう、ともいえる。

さて、この「分かる」がいつ生じるかには個人差があるが、実はこの分かるポイントの差が重要なのではないかというところから、本記事では「分かりの罠」という仮説を立てたい。

「分かりの罠」仮説

学校や職場で、自分と同じ時間の中で学んでいるはずなのに、いつも自分より試験結果や仕事のパフォーマンスが高い人というのを、多くの人が見かけたことがあるのではないだろうか。

これまでこの差は「努力の量が違うのだろう」「もともとの能力が違うのだろう」などの説明で分かった気にさせられてきた。

これを「分かり」を生じる習慣の違いとして説明してみたい。

つまりパフォーマンスが高い人は、他の人が分かったと感じた時点ではまだ分かりが発生せず、追加の情報を得たり考察を深めたりしてはじめて分かりを得るような習慣がついているのではないだろうか。

ポイントは、「分かり」の体験の量には差がつかないという点だ。

浅いところで分かるタイプの人でも、相当量の「分かり」を体験しているがために「自分はしっかり学んでいる」と思っており、何か改善すべき事態が起こっていると気づくことができない。

自ら差を埋めにいくような動機がない構造になっている。だから何度比べても差がついてしまう。これが「分かりの罠」仮説である。

「分かりの罠」を教育の観点から考える

近年では、動画投稿サイトを見てもわかるように、分かりやすい教育コンテンツが豊富に提供されるようになった。また、教える側のノウハウとしても「分かりやすさ」は重視されるポイントの一つである。

しかし分かりの罠仮説を認めるとすると、安易な分かりを提供すればかえって相手のパフォーマンスを下げることにつながってしまう。

自らの分かりの習慣を認識させ、改善せるような教育が真に求められるのではないだろうか。

まとめ

・分かる体験は快感をもたらす一方で、思考をやめるトリガーにもなる

・分かりを得る習慣の違いによって構造的に埋まらない差がつくという「分かりの罠」仮説を提案した

・教育する立場としては、安易な分かりを提供することに危機感を持ち、分かりの習慣を改善するような教育を行うべきではないか

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