フォルダの中で未来の私を救うために眠れ、もどかしかった今日

3/20 23:14

朝に最低気温は6度だと聞いて出た。
冬のダウンを持って出たのが正解だったけど、多分なくてもきっと大丈夫な気温だと思う。
温度を見たら15度だった。春の匂いがする。

今日は朝イチに腹痛で目が覚めて軽く頭痛があった。
でも外が晴れていたのでなんとか起きれた。
かこすけの何気ない言葉に過敏になってしまっていたのでもしやと思いながらも明るく振る舞って家を出た。
少しギリギリかなと思いながらも歩いて出勤することにした。
太陽が近く、天気はいいはずなのにやはりザワザワが止まらない。
出勤、明日は祝日なので今日を休みにしてる人も多かった。
オフィスに人は少なかったものの何故だか人の声がやたら耳を刺す感覚がするのでたまらず執務室を出て別階に移る。
最近大丈夫になってると思ってた謎の焦燥感と不安感にまた苛まれて仕事が手に付かなかった。
会社にいるときはいつもなんやかんやで出勤してしまえば大丈夫なのに今日は本当に久々にダメだった。
カレンダーを確認してもPMSにしては1週間ほど時期も早くて納得できる安心材料がなくて不安になる。
私ってこんなに不安症だったのか。
涙が喉の奥につかえている感覚を飲み込み気を紛らわせることをしながら仕事を進める。
仕事を進める傍らpixivで出産体験の漫画を読んだり心療内科を調べたりして気を紛らわせていた。
あぁ今の私のこの調子じゃ絶対に産後鬱になるから子供は産めないなと思ったりしては不思議な安堵と悲しみに包まれるなどした。
いつもは食べないようにしていたけれど明らかに糖が足りてない感覚になり、たまらずコンビニに買いに行った。ずっしりとしたホイップあんぱん、あと自販機でアルフォートも買った。
昔なら自分の好みのパンを買って好きなように食べていたのに、今はグルテンや添加物が気になってしょうがなくなってしまった。
こういうものを逆に精神の薬のように食べる感覚になったのが少し可笑しい。
添加物のことなんか知らずにいた頃にも戻りたいとさえ最近は思っている。
ここずっと、私にとっての食べ物の動詞は食べるじゃなくて摂取に近しい。
なんて味気ない世界だ。
楽天で買ったPMSに効くチェストベリーの錠剤を飲みはじめて5日目くらいだけど効いているのかまだわからない。
心がおかしくなる度に心療内科を探してはいるもののいいところが見つからずまだ決められていないけれど、もう本当に探してちゃんと行こうと心に決めた。
習慣改善も食事も漢方も自分でできる範囲のことはやった。
もういいだろう。
薬に頼ろうと思う。

3時以降はミーティングが重なり症状はだいぶ落ち着いた。
人と話していると気が紛れて助かる。
それ以降は気持ちが落ち着き午前できなかった分の仕事を追った。
21時、また話す人がいなくなって心がザワザワしてきたので帰ることにした。

渋谷のスクランブル交差点に紛れて歩く道で一歩また一歩と足を進めるごとにまた症状はわるくなり、やっぱりずっと泣きそうだった。
何も悲しくはないんだけど勝手に泣きそうになる。
こんなに人がいるからこそ逆に孤独を強めていた。
人通りの多い道を歩いている時、長岡の誰も歩いていない国道線沿いの造形大学前の歩道で雪を踏み締める自分の足元の景色ばかりが無意識的に脳裏に思い浮かぶ。
足元から顔を上げるとたまに造形大の知り合いがいたりして、「どこいくの?」「おつかれ」「じゃ」と足を止めることもなく2、3言交わしてすれ違うあの少しくすぐったい感じを思い出したりする。
だけど大学の頃はそんな場所が嫌で、早くそこから出たくて、東京がずっと大好きで、大勢の他人しかいない中の孤独を感じては心地よさに浸っていた。
当たり前だけど、ここではこんなに人がいても誰一人知り合いなんかには会うはずもない。
完全に真逆な今と昔だ。
ないものだけを求めてしまうので本当に人間は不便な作りをしているとつくづく思う。
人ごみを抜けると息を吸い込む余裕ができて深呼吸をしてみると本当に春になったんだなぁと感じる。
桜ももうすぐで満開で、春特有の浮足だった思い出ばかりを反芻しては、今年の春は特に何をしようとする気もないのがなんだか自分じゃないみたいで変だと思う。
だけどこの何もない日常こそが数年後にとてつもない輝きを放つことを私は知っている。大学3年に実験的に何でもない日のアトリエをタイムカプセルと称して撮影した動画は当時思っていたよりも500倍の光を放った。今、苦しくなった時には精神安定剤としてその動画を見返す。
何よりも大事なのは日常以外何もない。
そう思いながら帰り道の動画をなんとなく撮った。
未来への希望の日常だ。フォルダの中で私を救うために眠れ、もどかしかった今日。いまのこんな私の気持ちも数年後にはあんな時期もあったねと思えるようにしたい。

動画を撮りながらコンペ途中のクライアントのビルが目に入る。
広告代理店の営業という仕事を始めてから日常の中にクライアントのものがあると生活の解像度が上がる感覚になった。
今何の気なしにそこにある実態が抱えてる課題や背景や関わっている人の顔が見えると途端に熱を帯びる。無機質だったものに温度を感じる。
私が世界とつながりがある感覚がして、だからこそ今の仕事は大変だけど嫌いになることはないのだと思う。

結局家に帰るまでザワザワのままだったけど帰宅後はかこすけと話すなどしたまた気が紛れてよかった。
インスタライブでくだらない話をして、それを見返すと本当に楽しそうな私しか映ってなくて、こうして文章として残る私の心の内と動画の中や仕事で楽しそうに話して動いている外部の認識の中の私はチグハグと乖離していくのだと思うとまるで多重人格のようにさえ思う。

お風呂の中で一人、悲しくもないのに泣きながらこれを打っていて、もう夜中の2時半で、お湯はすっかりぬるくて、明日は病院に行こうと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?