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多様性とは、ラベルをつけることでは無い筈だった。

ありのままを受け入れましょう。
個人、個性を尊重しましょう。
貴方はあなたのままで生きて良いんです。

とか。

いってる事は正しいが違和感を感じるのは何故か。

まず、個人的結論から

結果(得意を伸ばす為の)グループに戻ると思う。

1.個人尊重を、個人の得意や好みを重視した環境構成とする。
2.ある1人に100%合う環境を、個人が個人の衣食住環境内で作るとする。
3.2の場合、他人と関わる必要は何処にあるか?否、他人と比較するもしくは、他人を手伝う場合のみとする。
4.比較する場合、同種の得意と好みの環境に行く必要がある。他人を手伝う場合、異種の得意と好みの環境に行く必要がある。

多分よく言われている「多様性」とは、自分の得意で他者の不得意を補う事。また、自分の得意と他者の得意で更なる発展を遂げる事だと思う。
要は、4の後者、自分が不得意な環境下で、得意を発揮する事を求めていると言える。

ただその前にまずすべきは、4の前者、自分が得意な環境下で、得意を存分に発揮出来るほどのコミュニティが必要である。

何故異種グループに参加するより先に、同種グループが必要であるか。単純に、異種にいた所で自分の得意は伸びないから。どう動けば上手くなるのか、自分の得意のうち今自分はLv.何なのか分からないから。得意が得意と認識できるレベルまで到達することが出来ない。故に迷子続出。同じ内容を頭に考えれないと話通じないってなるのと同じ。

だから、フラットになるのは確かにそうだが、階級が存在しなくなる.序列が無くなると言うだけで、グループの輪が薄れる訳では無いと思う。
じゃあ差別するのか?となるとそれも違う。差別とは、無知であるが故に理解できないそれを不愉快に感じる嫌悪感を、自分の思考と勘違いする事であって、全部知っとけば良いだけ。もしくは、五感以外の相手の内面構成だけを観てれば簡単だろう。

なんかもう話さなくても話終わったんじゃ無いかと思ってきた。でも一応なんか話しておく。

因みに、レベルとはそれをどれくらい極めたかであって、特に能力を数値化する意味ではない。
仮に同じLv.100が居たとする。まぁ結構やり込んでる人だなとは感じるが、本当にその人たちは仕組みまで全てを理解しているのか?となったら話は別だろう。そもそも、仕組みとは歯車がどう動いているかの話なのか、歯車をどう組み立てるかという話なのか、歯車をどう作ったのかという話なのかは深さが違う。
レベルとはただどの道順で進めたら良いかの判断基準の1つであって、思考や能力の判断基準とはならない。


〜なんか考えるゾーン〜

カミングアウト

よく「ありのままで居る事=曝け出す事=カミングアウト」と言う認識があるように感じる。
カミングアウトとは何なのか。自分はこれですよと言う、共通認識の存在するカテゴリの中の自分がどれであるかを相手に知らせると言う事。要は、自分で自分に「私はこうなんです、だからこう観てください」と自分から差別していただけるように行動しているようにも見える。

ここで、共通認識に存在するカテゴリを「ラベル付け」とする。


ありのままとは

本人そのもの。ただ在るもの。本人の本人というただの意識。比較対象無し。

個人的に、自己認識はラベル付けだと思う。
認識とは、判断する事。何を元に判断したのか。在るものから判断した。では、無いものはどう判断するのか?判断できない。何故なら、何も元になる比較するものがないから。

この、比較できないものを「個性」とする。


個性が理解されない理由

結論、個性だから笑。
比べられないものを比べようと試みたところで、比べるも何も分からない分かるはずもない。

ただ、理解されたいのは何故か。不安であるから。何故不安か。価値があるのか、そう在って良いのか疑問だから、そもそも何なのか分からないから。

「そもそも分からないよね」が本質であって、でも、それに近しい物、思考、人、が存在する確率は有る。だから、似ている人を探して、では自分は比べてどうであるのか?どこが違うのか?を理解する事には必要であるが、そこに序列は必要ない。


集団行動の認識の間違い

体育の授業で、集団行動を行なった前提として話を進める。
4列もしくは8列ほど、全員が各自の列で一直線に並び、腕の高さ、手の握り具合、歩幅の大きさ、手足を動かすタイミング、歩き始め、止まれ、など。
とても奇妙な光景である。
何故奇妙であるかは、目的がずれているから。

本来は補い合うはずの集団行動が、習ったのは同じ能力を持ち補填の必要ない集団行動であった。
本来スタートとゴールが決まって居て、ある人は速く、ある人は近道をして、ある人はリズミカルに歩いているはずだったものを、無くしている。
全てが等しい能力を持った、複製作業である。


複製重視である故の欠点と長所

複製出来るという事は、ある作成基準が存在する。ある作成基準に自分を当てはめて「ここは出来ない、ここは出来る」と判断する。また、その判断による更に「どれくらい出来るか、どれくらい基準に沿っているか」で評価が付く。それが序列である。

オール5、オールAもしくはS。これが一番良い評価であり、一番理想とされる作成基準に近い完成品である。


ラベルとは何なのか

何故商品に商品名が書いてあるのか。なぜ、商品名だけを見せられてもそれが何であるか分からないのか。名前は何故必要なのか。

商品名を個人の名前とする。商品のカテゴリをラベルとする。
(と、イメージしやすいと思ったのですが、具体例って出して良いものなのか分からないんで省きます。)

商品名はただの名前で、ただの文字で、ただそれに決められた呼び名で、ただの個性。それだけではよく分からないもの。「それって何なの?食べれるの?化粧品なの?ゲームなの?」ってなるはず。

カテゴリとは何なのか。この場合、食べ物なのか化粧品なのかゲームなのかという「それって要は何なの?」へ対する回答。この回答が、一単語で終わるのは、共通認識にこれはこれと言う何かしら概念の一問一答が出来るから。この、誰でも分かる、誰でも知っている概念を「ラベル」として他人に説明するために存在する。


ラベルが出来るまで

共通認識を作るための、知識なり仕組みなり概念だったりはどうやって出来たのか。
誰かが言って誰かが捕捉して誰かがまとめて誰かが分けて誰かが名前をつけて誰かが広めて誰かが理解して誰かが話して誰かが知ったから。
まぁとにかく長い。そして、多分広まる頃には簡略化されて、広めるに相応しい形に少しなり直されている。
直されているとしたのは、相手に無い概念を説明しようとしたら、相手にある概念の中から引っ張って少しずらして少し細くして少し分かりやすくして少し違う風に話さざるを得ないから。
そもそも、話す他人でさえその概念をどれくらい理解して居てどう解釈してどう思って考えて誰に話したいのかも曖昧である。
結局大体のことは曖昧で良く分かるはずもない筈。


よく分からなくなってきたから初めに戻る

自己開示も、要は共通認識のラベルから派生させて、相手が分かるように相手を探りながら、少しずつ調節して話さないといけない。

これって必要なのかと言う問題。

理解されたいのはただ自分が不安だからその解消になら、話せば良いと思う。理解されなくても話して楽になることもあるだろうし。

ただ、自分がこうであるんだと言うそれを、他人に証明する必要は無いと個人的に思う。
そもそも知らない分からない考えた事ない他人に説明した所で、本来の形とどれほど遠い解釈をする事になるだろう。

だから、同じでないにしろ、似ているコミュニティなりグループなり誰がなりとの関係が必要だと思う。
その似ている概念を繋げて、広げて、深く掘り下げて、「なるほどこれがそうなんだね」とただ自分が納得できる答えを探す事が自分軸の作成であり、複製でない個性であると考える。


どうやって似ている人探すの

それなー。あちこち行ってみるだけかな。自分のパターン探して、と言うことはここになら居そう、じゃあそこに行くには何が必要で、どうすれば行けて、何したいのか考えてが生きる意味にもなるとも言えるかも。


多様性とはバラバラって事で、まさか揃えようなんて思わない事です。