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大径管工場の建設 10.試運転調整

 据え付け工事に続いて配管、配線工事もほぼ完了し、1977年の年初から各設備の試運転調整がスタートした。主圧延設備はT社がシーケンスを組み、各設備の動きを確認して私の運転方案通りに自動で動くように仕上げる。機械設備メーカーのⅠ社の営業が調整要員を出しましょうかと、稲山係長に持ち掛けたが、稲山係長は全て当社で対応すると断った。
 
 T社のシーケンス調整チームが3カ所で同時に作業を始める。調整は電気だけで行えるものではなく、機械設備側が各チームに対応する必要がある。逐一説明し、動作限界の寸法を現場で指示し、リミットスイッチの位置を調整するなど、やるべきことはいくらでもある。ところが、機械代表は私1人、とてもではないが対応は不可能だ。3か所を回りながら口をだしていたが、T社チームの待ち時間が増えるばかり。毎日夜一段落した時に調整チームからの進捗報告を聞く反省会をするのだが、T社調整チームを統括する責任者に、秋山さん(私のこと)があと3人いないとどうにもなりませんと開き直られた。
 
 設備の調整中でも、細かいトラブルが限りなく発生し、全てに対応しなければならないから、対応中は更に調整が進まない。どうにもならないので、稲山係長から機械保全に頼んで、現場の保全マン3名を借りて対応することになった。直ぐに3人が選ばれて私が概略を説明して調整に参加してもらった。3人は驚くほど優秀で機械設備はもとより私の作成した運転法案も理解して、仕事をすすめてくれた。T社のチーフも、漸く軌道にのりましたねとほっとしたようだ。保全マンの3人にとっては初めての体験だし、判断の難しい局面もあるので、私は連日、3チームの全てがその日の計画を終える夜中の1時、2時まで現場にいた。ともかく余裕がなく・・・・知力、体力を振り絞って頑張った。
 
 保全マンの一人が見かねて、運転室で待機してくださいというので、最後は運転室で待機するようにしたが、椅子に座るので寝てしまう。最後のチームが調整作業を終えて私の処へ来て、起こして終了した旨を報告してくれる。その後仮設事務所に引き上げて、布団部屋で寝ることになる。
 
 この時期は、知力、体力を酷使し、殆ど限界だった。家に帰らないから一月ほど風呂に入らず、多分、変な匂いを発していたのではなかろうか、それでも垢にまみれて死ぬことはないのだと公言していた。季節が真冬なのが幸いだった。外向けには普通にふるまっていたつもりだが、私がずっと泊り込んでいることが所内上層部にも知られることになり、山上課長の上司、つまり私の3段階上の上司にあたる小山室長が何度か現場に現れて声をかけてくれた。

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