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カキフライのようなことについては、書けませんでした。(ワンさんへの手紙1)

ワンさん

お手紙ありがとうございます。
お返事が大変遅くなりすみません。不本意に忙しかったというのも遅くなった原因のひとつですが、手紙の内容を考え書いては直しを繰り返していたので、それもあって時間がかかってしまいました。

noteを使った書簡形式とは、とても面白い発想です。毎度のことながらワンさんの発案には「やってみよう」と思わせる魅力があります。
きょうび日常的に書く「手紙」はビジネスメールくらいです。文学にかんすることや近況をこうして私信(これは公開するわけではありますが)でやりとりするのは一昔前ならばありふれていたでしょうが、現代では稀有な、それゆえ価値ある実践ではないでしょうか。

「書くことのモード」でいえば、僕はnote記事を書く際、自意識のにおいを消しています。無論意図的にですが、努めてではなく、普通に記事を書いていて文章に自意識がこもることは殆どありません。自意識というのは要は「頼むから俺の言葉を聞いてくれ!」という意識をいっています。誤解を恐れず言えば、善くも悪しくも僕はnoteでそんなことを欠片も思っちゃいないのです。
素直に楽しめる記事にしたいし、なによりラジオに興味を持って欲しい。僕がnoteを書く動機はそういうところにあります。だから自意識は無用。書く行為に自意識を介在させない、取り除くのではなく最初から発生させないというのは、この五年余りビジネスパーソンの端くれとして生きてきたことの哀れで有用な副産物です。
つまり僕が書いているのは日記でもエッセイでも随筆でもなく、いうならばPR記事です。ゆえに「文学の活動」ではありうるかもしれませんが「文学の実践」では全くなさそうです。
しかし手紙というなら話は別です。手紙にも色々ありますが、友人に宛てる手紙であれば、むしろいくらか「俺の言葉を聞いてくれ!」という意識で書かなくてはいけない。そしてそれは取り組み方次第で「文学の実践」たりえるのではないか。
僕は今のところ、日記もエッセイも随筆もnoteに書く予定はないですが、手紙はこうして、遅々としてですが書いてゆこうと思います。

さて、もらった手紙でいくつかの話題を挙げてもらっていました。すべてのことには満足に答えられないですがご容赦を。

「夜長姫と耳男」回の扱いについては、色々考え、お蔵入りにします。少なくとも現時点では出せないという結論です。
今思えば僕たちはあのとき、終始「夜長姫と耳男」という作品を超え、安吾その人について、碌に知りもせず喋っていました。我々が作家について語っているつもりがない時間でも、おそらくはそうだったのです。
これは仮説ですが、安吾の小説というのは、彼自身のことをある程度知らなくては語ることができないのではないか。もっと意図することを正確に言うと、彼の作品について語っているつもりでも、語りは作品をすり抜けてしまい、作家そのものを語ることを強いられる構造があるのではないか。これは勿論安吾の作品に限った話ではないでしょうが、安吾や日本の主だった作家には特にこの傾向が強くあると感じます。
ですからあの日収められたのは単に我々の「作家・坂口安吾に対する理解不足の露呈」でしかなく、理解不足が解消される出口が欠けたままでは、単なる事故回でしかないと判断しました。
しかしあのちょっと微妙な収録をきっかけにワンさんが坂口安吾への興味を湧かせ、色々調べ始めたというのは意外でした。あまりワンさんが安吾にシンパシーを感じているとは思わなかったからです。なので「安吾と自然に話ができそう」というのは結構驚きで、どこにそう感じるのか、調べてなおそう感じるのかはまた教えてください。
ワンさんが書籍に当たって得た情報をラジオ収録の合間に断片的に聞き、僕も「夜長姫」はもとより安吾その人への理解が少しずつ深まっています。なので僕は今、安吾知識のフリーライダーをやらせてもらっています。なんだか申し訳ない気持ちです。たまたま買っていた矢田津世子も、読もうという気になりました。読んだら感想を言います。
そうしていつかの機会に、安吾についての会話の断片の集積が閾値を超え、何らか味のする実を結ぶことがあるのでしょう。そうなったとき初めて、あの微妙な安吾回を世に出す価値も出てくる気がしています。

しかしこうやって、継続して文学についての対話を積み重ねることができるというのは、それ自体がかなり奇跡的なことです。ラジオでお互いに何度も言っていますが、現代社会を生きねばならない人間達にとって、文学の意味や位置づけというのは非常に難しい問題としてあります。
文学というものは社会生活との不和著しく、どう撹拌してもドレッシングのようには上手く混ざりませんから、僕も学生時代まで不完全なかたちで持っていた文学の「イズム」は、数年を経て日々の精神から分離していました。これもラジオですこし言った通りです。しかしワンさんとこのラジオを始めてから徐々に、僕の中の文学観のようなものが再び手許に戻りつつあるように思います。
その文学観の鍵概念は「無為」です。乱暴なようですが、すくなくとも僕にとって読むことも書くことも無為なのです。これは虚無主義ではありません。営みであることを放棄することで世界の限界を捉えようとする、それこそが文学だという、希望を籠めた賭けのようなものです。「無為」はナンシーやブランショから借用している言葉ですが、僕はこの言葉に対して非常に強い実感を持っています。持っていたことを、思い出しつつあります。
僕は今、この「無為」概念を自分なりにひとつの文学観に仕上げられる予感を持っています。それはおそらくモノローグ対ポリフォニーの二項対立とはまた別種の切り口のものになりそうです。

ワンさんの手紙からは、はっきりとワンさんの声を感じます。もし僕の手紙にもそれがあるのだとすれば、ラジオと同じようにこの往復書簡の積み重ねは多声部を作り上げるのでしょう。
そしてその多声性はこうして公開し、色々な人の耳目に届くことによって、初めてあらわれるものなのだという気がします。また、今後僕ら以外の人々の声も重ねてゆけるかもしれない、その素晴らしい可能性も、まずはこうした取組を始められたからこそ産まれました。改めて、ラジオの企画を受けていただいてありがとうございます。

カキフライ的なことも書きたかったのですが、一往復目ということで力みすぎましました。次回はもうすこし柔らかいことも書ければと思います。
北野武の「首」、凄かったです。ファンタジーでした。時代劇はファンタジーにしかなり得ないという事実を真正面から受け止めているようでもありました。観たら感想教えてください。

お返事お待ちしています。

ニンゲン

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