石井睦美『白い月黄色い月』考察
石井睦美の『白い月黄色い月』を考察したので軽くまとめます。
2010年出版の本なので今さらかもしれませんがネタバレ注意です。
もし読んだことない方で「子どもが心象世界に迷いこむ」系の話が好きな方は、この文章を読むのをやめて、代わりに本の方を読むことをおすすめします。
あらすじ
主人公の「ぼく」は記憶をなくした少年。カエルの顔を持つオーナーと百科事典のビブリオが住むドリーミングホテルに居候している。ドリーミングホテルの建っている島は十字に通っている運河で4つに区切られている。1の島には時計塔、2の島には港、4の島にはドリーミングホテルがある。3の島へは行かないようにオーナーから言われている。島はどこも美しいものであふれていた。主人公は記憶を取り戻すため毎日自分が乗ってきたと思われる船を見に港へ通っていたが、ある時それが無意味だと感じ、もう港へ行かないと決意する。それを聞いたオーナーとビブリオはなぜか動揺していた。翌日「ぼく」はオーナーに連れられて市場に出かける。島には市場などないはずだったが、オーナーについていくと、港があるはずの場所には賑やかな市場が広がっていた。二人はそこで、オーナーの知り合いであるウサギの少女に会う。オーナーはウサギの少女と母を夕食に誘うことにした。夕食の時「ぼく」とウサギの少女は、ウサギの母が勤める工場に見学に行く約束をした。翌日(明確には書かれていないが恐らく)二人は工場へと出かける。その途中、黒い女性の影を見た気がした。ウサギの子は、夕食の帰りその女性を「見たことがある」「怖い」と言い、ウサギの母は女性を「かわいそうな人」と表現した。工場見学の夜もウサギの親子を夕食に招いたが、彼女たちが帰ったあと、ホテルに黒い老婆が現れる。オーナーは老婆を追い出そうとするが、「ぼく」は老婆を知っている気がしてついていってしまう。「ぼく」は老婆を追って3の島に行くが、そこの美しい建物ははりぼてで、裏にみすぼらしい家が立ち並んでいた。「ぼく」はなぜか老婆に会えてうれしいと感じる。「ぼく」は老婆を追い、途中にあった門をくぐろうとするが、そこで激しい憎悪が向けられているのを感じた。憎悪を断ち切りくぐった時「ぼく」は気を失う。目覚めた時「ぼく」は「老婆」の家にいた。老婆は「門の前で感じたのは、まぎれもなくわたしじしんの憎悪」(P148)「よくないものをすべて取り払った形」で島は存在し、そこに帰ることは逃げることであること、「あなたのお母さんであるとも言えるし、そうでないとも言える」(P169)「自分の愛と楠(主人公)の母に会いたいという気持ちが」この世界を生みだしたということを語る。楠はほんとうの世界に帰る決意をした。老婆が鏡を取り出して割ると、楠はドリーミングホテルにいた。荒廃したドリーミングホテルのソファには朽ちて開かなくなった百科事典とカエルのミイラがあった。やがてのどの渇きと孤独に苦しめられた楠はロビーの鏡の中に自分を見つける。気を失う寸前鏡が割れるのを楠は見た。楠は自宅から百メートルのところで警察に保護された。自分は両親を自動車事故で亡くし、自宅をアパートにしている祖父に引き取られて暮らしていたのだった。帰ってきた楠は、祖父や、アパートの住人であるハカセ(大学教授)、写真家の沢木さん、小二の美穂ちゃんとおばあさんの真理子さん一家とパーティをした。プレゼントとしてハカエからは自作の辞典、沢木さんからはペルーで出会った老婆からもらった笛をもらった。
島と島の住人について
ドリーミングホテルの建つ島はハピネス島という。その名の通り「すべてが美しい」(P9)島だ。一方で常に白い月と黄色い月が空に出ていたり、存在しないはずの市場や工場、野原が出現したりと、不思議なことが起こる場所である。島の住人であるオーナーやビブリオ、ウサギの親子も奇妙な存在ではあるが記憶をなくした主人公に対して常に優しく寄りそうキャラクターとして描かれており、この島に悪いもの、悪い人などいないように見える。それではこの世界は、現実なのだろうか。
楠はウサギの子と工場見学に行く時、ふと「この野原も、これから行く工場も、毎日通いつめた桟橋も、このあいだオーナーとでかけた市場も、どうしようもなくうそくさいじゃないか」(P90)と感じている。ずっとこの世界を疑っていたわけではなく、ふとそのように感じたのである。やがて楠は門の飾りのネズミに「うすあかるいのはにせもの。くらいのはほんもの」(P125)と言われ「まやかしだ。まやかしなんだ」(P130)と気づく。老婆からは「ここは、だれも来ない場所なの。来たいとも思わないし、万一そう思ったところで来られる場所ではないの」「ここはわたしの場所であると同時に、あなたの場所でもあるから」(P149)と告げられ、ハピネス島自体が実際には存在しない世界であることが分かる(老婆のいる世界も現実ではないが、ドリーミングホテルのある側と比較して「ほんもの」の世界として描かれている。これについての詳細は後述する)。
解説のP206にも明記されているが、この不思議な世界は主人公の心の中が舞台だ。P182で老婆は「あなたがここに来たのは、それをあなたが強く求めたからよ。そうよ、ここはわたしの場所であり、同時に、あなたのための場所でもあるの。あなたがこの場所を、このわたしを、ほんとうに必要としたとき、あなたはまたここに来ることになるわ」と述べている。ここは単なる楠の心の中ではなく、昔交通事故で亡くなった母親の世界でもあるというのだ。そして、この時の老婆は母親だが、同時に他の現実世界の何人かでもあるというのだ。解説(P206)で四方田犬彦氏は「モノを探究する人間の物語」と語っているが、つまりこれは、亡くした母親を求めて楠が心の中を旅する物語と言えるのではないだろうか。また同時にこの世界は楠だけでなく「彼のお母さんの心の奥」でもある。そう考えると、この物語の謎がある程度整理できると考える。
ハピネス島の美しさは楠も気づいた通り表面的なまやかし、にせものであり、実際の姿は3の島にある。彼が老婆の家に続く門をくぐる時に感じた憎悪は、息子を残して死んでいった自分へのものであり、その思いが不思議な島を作りだした。だが、その島の中央からも追いやられてしまっている。楠が老婆といる時に感じる幸福感は、記憶喪失の状態ではあるが、ここに来た目的である「母との再会」を果たせているからだ。
解説で四方田氏は旅の途中で出会う人物がだんだんと年老いていく点に注目するよう言及している。確かに、ウサギの子、黒い女性、老婆とだんだんと老いてはいるが、その理由については書かれていない。
おそらくこの物語の女性は、すべて母親を象徴しているのではないかと私は考える。
最初に楠はウサギの子と出会う。楠より幼いが、ませていて、時には楠をはげまし気づかう様子を見せる。彼女は黒い女性を一度だけ見たことがある。次に出会ったウサギの母親は、黒い女性を知っていて「かわいそうな人」と言った。黒い女性は、一度だけ楠の前に一瞬だけ姿を現すが、その直前楠は、この世界が「うそくさい」ことに気づいていた。最後には黒い老婆が現れるが、楠はその黒い老婆が母親である(母親でもある)ことに気がついた。楠は老婆を飲みこんでしまうが、これは世界のすべてが楠の心の中と母親の想いで作られたことを示していることを表しているのではないか。また、このように物語中の女性を出会う順に並べると、種族、年齢が少しずつ母親に近づいているように思える。最後がみにくい老婆になってしまうのは、母親が「美しいにせもの」の対極であるほんものの存在だからだろう。
では、オーナーは何者だろうか。P176で楠が「どうしてオーナーはお母さんを追い払ったの?」と老婆に訊ねた時、老婆は「おじいさんはわたしを許さない」と答えている。つまり、オーナーは現実世界のおじいさん(お母さんの父親)であると考えられる。オーナーが「こんなにも親身」(P60)で楠への「まぎれもない愛情を感じる」(P90)のは、現実世界のおじいさんと同一人物だからだ。だが彼は現実のおじいさんではなく、楠と母親の心が作りだしたおじいさんである。だから、3の島には行ってはいけないと言い(実際は楠が無意識に思っている「心の奥底をのぞきたくない」という気持ちを代弁しているにすぎない)、老婆を「出ていけ」とののしったのだ(お母さんは「息子をおいて遊び歩いて、おじいさんに嫌われても仕方ない」と考えており、その気持ちがあのようなオーナーの行動として現れたのではないか)。
ちなみにオーナーがおじいさんだとすれば、ビブリオは現実世界のハカセであり、ウサギの親子は、現実世界の美穂ちゃんと真理子さんである。その証拠に、現実世界のおじいさんとハカセは真理子さんが大好きだが、オーナーとビブリオも、ウサギの親子がパーティに来ることになり「ふたりともすごく変」(P40)になり「とくべつなひとたちなのかも」(P41)と楠が感じるほどだった。
まとめ
ハピネス島は楠の母親を求める気持ちと、母親の楠に会いたいという気持ちと自分への憎悪から生まれた。ハピネス島の住人も、母親あるいは楠と母親の関係者がモチーフとなっている。楠がまたここに来る可能性がある、そしてその時老婆が母親ではないかもしれないというのは、将来楠が同じように大切な人との別れを経験するかもしれないことを暗示しているのではないか。
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